奈良奉行所は幕府直轄地奈良の支配及び、
奈良の大寺院の監視を行った奉行所で、
奈良奉行が支配し、門前町と周辺の8村、
寺領の治安維持を担当しました。
他の遠国奉行と共に老中支配でしたが、
京都所司代の指揮下に入り、
春日大社の警衛も任務としています。
「奈良女子大学(奈良奉行所跡)」。
奈良奉行所跡は現在、
国立大学奈良女子大学の敷地。
奈良女子大学の前身は、
奈良女子高等師範学校で、
東京女子高等師範学校と共に、
戦前の女子教育の最高学府でした。
奈良奉行所は近隣の奉行所と比べ、
広大な敷地面積を持っており、
大坂町奉行所のほぼ3倍で、
京都町奉行所の約1.6倍の広さがありました。
総面積8700坪の正方形に堀や土塁を巡らせ、
軍事的拠点の役割を担ったようです。
奈良奉行の名奉行だった川路聖謨は、
犯罪や賭博等の取締と再犯防止に尽力。
貧民救済の為に基金を設立し、
地場産業の育成、学問の普及、
植林の振興などで実績を挙げています。
興福寺や東大寺から佐保川の堤まで、
数千本の桜と楓の木を植え、
現在の奈良公園の基礎も作ったとされ、
その事から桜奉行とも呼ばれました。
川路が任期を終えて江戸に戻る際は、
大勢の住民に見送られたようで、
多くの人が餞別を持参しましたが、
これを受け取らずに熨斗のみを受け取り、
江戸に帰っていったようです。
その後の川路は大阪東町奉行、勘定奉行、
そして海岸防禦御用掛を歴任。
長崎でプチャーチンの応接を担当して、
ロシアの要求を巧みにかわしており、
下田でもロシアと交渉を行って、
日露和親条約の調印を行いました。
その後も幕政に尽くしていますが、
井伊直弼が大老に就任すると、
将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した川路は、
左遷され隠居謹慎の処分。
桜田門外の変で井伊が殺された後、
外国奉行として復帰しますが後に辞任。
幕府崩壊後の江戸城総攻撃の予定日に、
拳銃で自決しています。
最後の奈良奉行は古俣伊勢守景徳。
あまり資料の残っていない人物ですが、
桜田門外の変の際は評定所留役で、
明治24年に刊行された旧事諮問録で、
桜田十七士の吟味の様子を語っています。
新政府は大和鎮台を設置し、
奈良奉行所は廃止。
大和鎮撫総督府を経て、
奈良県へと移行しました。
※後に奈良府、奈良県、堺県、
大阪府へと変貌し、
最終的に奈良県となっています。
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川路は日露和親条約を調印を 。
・京都府京都市 京都所司代跡
奈良奉行は京都所司代の指揮下。