福島県伊達郡 桑折代官所陣屋跡

桑折には幕府天領として代官所が置かれ、
管轄地の司法、行政が行われた他に、
半田銀山の経営が行われていました。

桑折は米沢藩領や会津藩領であったり、
桑折藩が立藩したりと、
その領地支配が入れ替わっていましたが、
半田銀山に有望な鉱脈が発見された為、
天領として幕府の支配を受けています。

この半田銀山は石見銀山生野銀山と共に、
江戸期の三大銀山に数えられ、
その始まりは大同元年(807)とされますが、
実際は慶長3年(1598)頃のようです。


旧伊達郡役所(桑折町文化記念館)」。
伊達郡役所は明治12年に、
保原町に設置されますが、
桑折町有志による誘致運動によって、
現在の桑折町に移されました。
これはその際に新築された庁舎で、
国の重文に指定されています。


東久世通禧詩碑」。
東久世通禧七卿の一人で、
維新後は政府要職を歴任した人物。
桑折との関係はわかりませんでしたが、
桑折で霊山を望んだ際の事を詠んだ詩。
 海内妖氣侵闕廷
 感君殉節姓名馨
 鑾輿今日経過路
 仰見霊山千古青

訳:国内の妖気は朝廷を侵している
  天子に殉じた志士達の名を思い浮かべる
  帝輿が今日、ここを通過した
  霊山を仰ぎ見ると永遠に青いようだ

いつ詠まれたものかよくわかりませんが、
明治天皇の東北巡幸に随行した際かな?


野鴈去国歌」碑。
桑折の国学者で歌人の安藤野雁の歌碑。
慶応3年に故郷に訣別して詠まれた長歌で、
その1か月後に埼玉で死去しています。


桑折陣屋跡」説明板。
実はこの桑折代官所陣屋は、
旧伊達郡役所敷地の東隣にありました。
本来碑はその場所にあるべきなのですが、
現在の跡地は全て民家となっており、
仕方なくここに建てられたのでしょう。


徳川領桑折陣屋跡」木標。
陣屋のあった場所の南側の陣屋の杜公園
こちらも跡地からは外れています。
遺構は皆無ですし説明板は変な設置ですが、
どうにかしたい気持ちは伝わりますね。

桑折代官所陣屋を後にして半田銀山遺跡へ。

半田銀山遺跡 明治天皇行幸記念碑」。
銀山遺跡とされていますが、
坑道ではありません。
ここは坑夫桑折宿女郎達に、
見送られた場所とのこと。
坑道も国見町に残っているようですが、
現在は入れないようです。


女郎橋跡」。
鉱夫達が鉱山に向かう際に通った橋で、
桑折宿の女郎達は橋まで見送ったという。
石垣のみで橋が掛けられていませんが、
この下に川があったのでしょう。


半田銀山鉱夫供養塔」。
半田銀山で亡くなった鉱夫の供養塔。
鉱山ですので落盤事故はつきもの。
多くの鉱夫が命を落としているのでしょう。
ここに明治天皇行幸記念碑もありますが、
色々な場所に結構ありますので、
失礼ながら割愛しています。

桑折代官所は14万石の大規模代官所で、
司法行政と半田銀山経営の他、
桑折は養蚕の産地だった為、
代官が赴任して政務を行っています。
※小規模の代官所では代官に任命されても、
江戸で政務行うケースが多かった。


戊辰戦争では代官所は仙台藩預かりとなり、
西山城跡や産ヶ沢河畔等に、
仙台藩が台場を設置しており、
奥羽越列藩同盟軍の拠点となりましたが、
仙台藩の降伏と共に新政府軍直轄地となり、
廃藩置県後に福島県に統合されています。

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