三上藩の藩主家である遠藤家は、
郡上2万7千石を領する郡上藩主でしたが、
5代藩主遠藤常久が7歳で死去し、
無嫡断絶となっています。
しかし藩祖遠藤慶隆の功績が考慮され、
徳川綱吉の側室瑞春院の甥に遠藤家を継がせ、
常陸や下野の1万石で再興。
遠藤家とは所縁の無い旗本白須数馬が、
遠藤胤親を名乗って藩主となっており、
程なく近江四郡に移封され、
三上を本拠として三上藩が立藩しました。
遠藤家は外様でしたが、上記の経緯で譜代格とされ、
歴代藩主は大番頭、奏者番等を務めています。
三上陣屋跡は住宅地となっており、
跡碑のようなものも建てられておらず、
陣屋のあった形跡はありません。
三上陣屋跡の周辺の水路には、
陣屋遺構の様な石垣が見られますが、
それが藩政時代のものなのか、
それ以降のものなのかは、定かではありません。
それっぽい様にも見える石垣は点在しますが、
陣屋遺構なのかは不明。
最低でも藩政時代の城下遺構ではあると思います。
三上藩は廃藩前の明治3年。
吉見に藩庁を移して三上陣屋を破棄しました。
遺構が皆無なのはそういう理由でしょう。
陣屋のあった滋賀県野洲市のお隣湖南市には、
陣屋の表門が移築現存しています。
「常永寺山門」。
三上陣屋表門であったとされる山門。
幕末の藩主5代遠藤胤統は、
田安門番、青屋口加番、馬場先御門守衛、
雁木坂加番、玉造口定番などを務めた他、
日光祭祀奉行にも任じられています。
玉造口定番であった時に、大塩平八郎の乱が発生。
鎮圧で功績を挙げ、若年寄に昇進しました。
その後も諸役を歴任し、
江戸城御勝手掛、西ノ丸造営奉行、
海岸防御筋御用掛などに任じられて2千石を加増。
和宮と14代将軍徳川家茂の婚礼の際には、
婚姻大礼御用掛を勤めています。
ロシアシベリア総督ムラヴィヨフが、
品川に来航して樺太が露領であると主張した際は、
虎ノ門天徳寺での会談でこれを退けました。
桜田門外の変が発生した際、
井伊直弼の首級を持った有村次左衛門が、
三上藩邸前で力尽きて自刃。
三上藩士らは有村を藩邸内に収容しますが、
同日中に死亡し、井伊の首級は三上藩が手に入れます。
彦根藩は三上藩に対し、供侍の首として返還求めますが、
「幕府の検視が済まない内は渡せない」と5度も断り、
三上藩、彦根藩、幕府の三者協議により、
首級が引き渡されました。
※普段より三上藩側が井伊を好く思っておらず、
ある種の嫌がらせに近かったとも・・。
次代遠藤胤城は、文久3年の胤統の隠居で家督を継ぎ、
講武所奉行、陸軍奉行並、奏者番等を務めました。
新政府発足後も恭順の意志を示さず、
一時朝敵となっていますが、謝罪して許され、
三条実美の会津行きの警護を命じられており、
藩士85名を派遣した他、会計方にも任じられています。
明治3年に藩庁を飛地の吉見に移し、
吉見藩となりましたが、程なく廃藩置県を迎えました。
【三上藩→吉見藩】
藩庁:三上陣屋(後に吉見陣屋に移転)
藩主家:遠藤家
分類:1万2000石、譜代大名
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