織田信長は安土城を築城して拠点とし、
琵琶湖対岸に大溝城が築城されています。
これは明智光秀の縄張りとされ、
琵琶湖と内湖を巧みに取り込んだ水城で、
磯野員昌に与えられていましたが、
員昌は信長に背いて出奔した為、
信長の甥津田信澄に与えられてました。
本能寺の変で信長が光秀に討たれると、
光秀の娘を妻とした信澄の加担が噂され、
これを聞いた神戸信孝や丹羽長秀が、
大坂城千貫櫓いた信澄を討ち取り、
謀反人として梟首しています。
「大溝城本丸跡」。
天守台と内堀が遺構として残っています。
その後の大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、
生駒親正、京極高次と城主が入れ替わり、
京極高次が転封となった際に廃城。
大溝は分部光信に与えられて、
三ノ丸跡に陣屋が構えられました。
「惣門」。
現存する大溝陣屋の長屋門。
近年まで民家として使われていたようで、
人が住んでいた生活感が感じられます。
幕末の大溝藩11代藩主分部光貞は、
参勤交代で江戸に出仕する度に、
佐藤一斉、河田屏浦、川田甕江等、
儒学者を招いて四書五経の講義をさせ、
藩邸の藩士達にも受講させたという。
後に川田を藩校脩身堂の教授に招き、
藩士の指導に任らせてました。
光貞は中風を患っていたようで、
幕末期は京都警備に出兵した他は、
特筆するような行動は無かったようです。
大溝藩は王政復古後に新政府に恭順し、
鳥羽伏見の戦いには藩兵75名を派遣。
光貞は明治3年に死去しました。
家督は次男分部光謙が相続していますが、
大溝藩の藩財政は破綻していた為に、
廃藩置県に先立ち廃藩願いを出しており、
大溝藩は廃藩しました。
後に華族となった光謙は競馬に嵌り、
日本最大の馬主となりますが、
浪費で華族会館から謹慎処分を受け、
爵位を返上して余生を過ごしています。
※光謙は昭和19年まで生存しており、
林忠崇や浅野長勲よりも、
後年まで生存していますが、
光謙は藩主ではなく藩知事であり、
その就任期間もごく短期間である為、
最後の藩主として名前は挙がりません。
【大溝藩】
藩庁:大溝陣屋
藩主家:分部家
分類:2万石、外様大名
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