「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山・・」
子供の頃に観た東京・日本橋 山本山のCMのフレーズで、
何故だか未だに覚えていたりします。
この山本山とは全く関係ないのですが、
琵琶湖北東湖畔に山本山という標高325mの山があり、
その尾根は琵琶湖と余呉湖を隔てる賤ケ岳へと続きます。
平安時代末期には、平家追討に応じた山本義経が、
山本山山頂に山本城を築城。
この山本義経は現在の山本姓の祖とも云われ、
山本山は全国の「山本さん」の故郷ともされるらしい。
「山本山」。
長浜市の田園地帯より望む山本山。
山本山城は戦国時代、浅井家の支城となっており、
浅井家家臣阿閉貞征が城主を務めていましたが、
貞征は織田信長に内通して山本山城を開城。
これにより浅井長政の居城小谷城は孤立してしまい、
浅井家滅亡の遠因ともなっています。
貞征はその後も山本山城主となっていましたが、
本能寺の変後に明智光秀に加担して敗北。
羽柴秀吉に捕らえられて磔刑となり、
山本山城もその際に廃城となりました。
話は変わって幕末の山形藩。
山形藩は、譜代大名の入れ替わりの多い藩ですが、
幕閣内で失脚した大名の左遷地だったようです。
これは山形の地が表高と実高に差があって、
実収入が少なかった為だったようで、
厳封させずに懲罰できる都合の良い場所でした。
もちろん初めからそういう趣旨の藩ではなく、
当初は最上家57万石の支配地だったのですが、
最上家は御家騒動によって改易となり、
代わって譜代の鳥居家や保科家が入封しますが、
この辺りに左遷藩としての形跡は全くありません。
その後、松平直基、松平忠弘が短期間入封した後、
「宇都宮興禅寺刃傷事件」や「追腹一件」で、
宇都宮藩から奥平昌能が2万石厳封で入ってきて、
左遷藩としての始まりとなります。
以降、前藩主が殺害された為の懲罰で堀田正仲、
白川騒動による懲罰で松平忠弘、
将軍後継者問題による懲罰で松平乗佑、
田沼意次との対立による左遷で秋元凉朝、
前藩主失脚の懲罰で水野忠精が山形に左遷されました。
※この間には加増転封された松平直矩や、
落ち度の無い堀田正虎も入封しています。
最後の山形藩主家は水野家。
水野家も前藩主水野忠邦の失脚による左遷でしたが、
次代藩主水野忠精は順調に出世しており、
老中首座にもなっています。
新政府が樹立すると、
隠居した忠精と次代藩主水野忠弘は京都で恭順。
奥羽鎮撫総督に従って庄内藩と戦いましたが、
仙台藩、米沢藩の要請によって、
家老水野元宣は奥羽越列藩同盟に加盟。
山形藩は秋田戦争で新政府軍と戦いました。
戦後、元宣は一切の責任を負って処刑され、
山形藩水野家は近江国に転封となっています。
※山本山周辺の10村は、元から山形藩の飛地。
「長浜県立朝日小学校(朝日山陣屋跡)」。
山形から転封となった水野家は、
山本山の麓に陣屋を建設。
山本山の別名朝日山を藩の名称として届けました。
陣屋跡は朝日小学校の敷地となっており、
遺構は残されていませんが、周辺の建物や水路などに、
江戸時代の形跡が多く残っています。
【朝日山藩】
藩庁:朝日山陣屋
藩主家:忠元流水野家
分類:5万石、旧譜代大名
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隣藩の宮川藩堀田宗家の陣屋跡。