山形藩は失脚した大名の左遷藩と呼ばれ、
非常に不名誉な印象を受けている藩。
確かに藩主家は12回も代わっており、
その理由も失脚によるものが多いようです。
とはいえかつての最上家の本拠地であり、
嫌われる要素がある訳ではありませんが、
表高と実高の差が大きかったようですので、
大名の懲罰的転封に適していました。
勿論初めからそういう趣旨の藩ではなく、
当初の最上家57万石はもちろんですが、
譜代の鳥居家や保科家の20万余石、
短期で松平直基、松平忠弘の15万石など、
左遷藩の要素は見られませんでしたが、
宇都宮興禅寺刃傷事件や追腹一件で、
奥平昌能が2万石厳封で入って以降、
左遷藩としての始まりとなります。
前藩主が殺害された為の懲罰で堀田正仲、
白川騒動による懲罰で松平忠弘、
将軍継嗣問題による懲罰で松平乗佑、
田沼意次との対立による左遷で秋元凉朝、
前藩主失脚の懲罰で水野忠精が入封。
※この間にも加増転封された松平直矩や、
落ち度の無い堀田正虎も入封しています。
最後の山形藩主家は忠元流水野家で、
前藩主水野忠邦の失脚による左遷でしたが、
次代藩主水野忠精は順調に出世しており、
老中首座にもなっています。
「二ノ丸東大手門」。
山形城跡は霞城公園として整備され、
体育館、武道館、博物館、野球場など、
総合的な都市公園となっています。
・・・が!なんと閉鎖中でした。
桜の名所のようで花見客が押し寄せる為、
コロナ感染拡大を防ぐ為の閉鎖とのこと。
桜はかなり前に散っているのに。
仕方なく中堀外周を廻ります。
「北不明門跡」。
東がダメなら北からは?と思ったら、
当たり前ですがこっちもダメ。
完全に封鎖されていました。
ある意味籠城のような状態。
「中堀」。
山形城は三重の堀で囲まれた平城。
内堀は陸軍駐屯地となった際に埋められ、
外堀は市街地化されて埋められましたが、
中堀は状態良く保存されています。
これ以上は入れないのですから、
これにて終了。
「最上義光」像。
最上義光歴史館前にある最上義光の銅像。
東大手門内に騎馬像があるのですが、
今回は拝見できませんでした。
天保の改革に失敗した老中水野忠邦は、
失脚して隠居しており、
跡を継いだ水野忠精が山形藩に左遷。
忠精は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、
老中を経て老中首座となっています。
一時本多忠民に首座を明け渡しますが、
再び首座に返り咲いた後、慶応2年に隠居。
慶応4年閏4月。
隠居した忠精と藩主水野忠弘は上洛。
新政府に恭順の意を示していますが、
京都で軟禁状態となっています。
奥羽鎮撫総督が東下するとこれに従いますが、
仙台藩、米沢藩の要請によって、
国許は奥羽越列藩同盟に加盟する事となり、
山形藩は秋田戦争で新政府軍と戦いました。
戦後に山形藩家老水野三郎右衛門が、
一切の責任を負って斬首されて、
水野家は朝日山藩に転封となっています。
【浜松藩→山形藩→朝日山藩】
藩庁:浜松城→山形城→朝日山陣屋
藩主家:忠元流水野家
分類:5万石、譜代大名
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