吉田大八守隆は江戸家老吉田守寛の長男で、
15歳で家督を継ぎ、大目付、武具奉行、
藩校養正館督学等の要職を経て中老に昇格。
天童藩は慢性的財政難に苦しんでおり、
藩士は貧窮にあえいでいたという。
大八は救済策として将棋駒の製作を提案。
武士の手内職に反対意見もありましたが、
将棋は兵法に通じ面目を傷つけないとし、
これを大いに奨励しました。
後に天童は将棋駒の産地になります。
天童藩は奥羽鎮撫使先導役を命じられると、
藩主名代として大八がこれを務め、
諸藩兵と共に庄内藩と戦っていますが、
天童藩は手薄な陣屋を焼き討ちされるなど、
苦戦を強いられました。
その後に奥羽越列藩同盟が成立し、
天童藩もこれに加わった為、
先導役を務めた大八は責任を追及され、
妙法寺の観月庵にて自刃しました。
※庄内藩は大八の引き渡しを要求しますが、
引き渡しは私怨であるとして、
同盟を主導する仙台藩の裁定により、
天童藩による自裁が決定されました。
「妙法寺」。
本尊は大黒天という日蓮宗の寺院。
ここの境内に観月庵があります。
「明治戊辰殉難志士追墓碑」。
山縣有朋の書によるもの。
吉田大八の名は無いようですが、
関連する殉難者は大八のみですので、
大八に対するものなのでしょう。
「観月庵」。
吉田大八は明治元年6月18日に、
この観月庵にて自刃しました。
庵の前にはかつて泉が沸いていたとされ、
そこで汲んだ水を末期の水と献じた少女と、
笑みを交わして死に臨んだとされます。
「建勲神社」。
妙法寺より観月山側へ登った先には、
織田信長を祀る健勲神社があります。
戦国時代に日本が侵略されなかったのは、
日本をまとめた信長のおかげとして、
明治2年に神祇官より神号が与えられ、
東京知藩事私邸に祀られた「健織田社」を、
天童観月山に勧請して建勲神社を建立。
北側の公園に吉田大八碑があったのですが、
訪問時に見つけられませんでした。
参道を下りて十字路まで戻り、
南へ200m進んだ先にある沸向寺へ。
「佛向寺」。
一向宗開祖一向俊聖の創建と伝わる寺。
この寺の墓地に吉田大八が葬られています。
「吉田大八守隆墓」。
墓碑銘は先導役として出発する際、
死を覚悟して墓碑銘を自筆しています。
墓前には薩摩藩士6名の灯篭が建っており、
大八の死を憐れんて寄進された模様。
大八の墓の並びの天童藩士海野彦吉の墓。
「海野政義墓」。
天童藩士海野彦吉(政義、政和)の墓。
明治元年閏4月4日の戦闘で戦死。
他にも天童藩士の墓があるようですが、
時間の関係で探す余裕はありませんでした。
佛向寺を出て天童公園へ。
天童公園は観月山一帯を公園化したもので、
南北朝時代に築城の天童城跡でもあります。
「吉田大八公像」。
天童公園の駐車場近くに設置された銅像。
平成17年に建てられたものです。
上山藩領で奥羽鎮撫の閲兵式があった際、
先導役代理として上座に座ったという。
この事からも先導役というものが、
重要なポジションであるが推測されます。
「山頂広場(人間将棋会場)」。
天童市では甲冑を着た人達が駒になり、
プロ棋士が対局する人間将棋が行われます。
「人間将棋の様子(現地説明版より)」。
残念ながらコロナで今年は中止された模様。
写真を見る限りとても面白そう。
用兵技量の育成に適した遊戯も頷けます。
さすが将棋の町。
是非とも観てみたいものです。
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天童藩織田宗家の陣屋跡。