山形県山形市 水野三郎右衛門関連史跡

山形藩筆頭家老水野三郎右衛門元宣は、
藩主不在の山形藩をまとめて、奥羽越列藩同盟に加盟。
秋田戦争などで新政府軍と戦い、
敗れた後は自ら首謀者としてその責を背負い、
新政府軍によって処刑されました。

列藩同盟への参加、新政府軍への降伏、
そして自らが全責任を負って処刑された事など、
三郎右衛門による適切な判断の結果、
山形城下は結果的に戦火を免れています。
これは三郎右衛門の功績であると、
山形では郷土の恩人として三郎右衛門を称えています。


水野藩水野三郎右衛門元宣宅址」。
三郎右衛門の屋敷のあった場所は、現在の最上義光歴史館
水野家老家は、藩祖水野忠元の弟水野守信を祖とし、
守信の子信英が忠元に仕えて代々家老として仕えた家。
当主は代々、三郎右衛門、平馬治部治郎右衛門と称し、
三郎右衛門元宣の父元永は通称平馬でした。


豊烈神社」。
元々は水野忠邦が藩祖忠元を浜松城内で祀ったもので、
山形移封時に遷座し、維新後に藩祖ゆかりの山川に移され、
明治13年に分霊を現在地に勧請。
大正2年に山川の本社も遷座併合して現在に至ります。


城代家老水野三郎右衛門元宣」像。
境内に建てられている三郎右衛門の銅像。
山形を戦火から救った恩人として、
地元有志らが発起人となって募金を募り、
明治35年に銅像が建立されましたが、
大東亜戦争金属供出によって失われました。
現在の銅像は昭和21年に再建されたもの。
三郎右衛門ら戊辰戦争殉難者24柱は、
昭和30年に豊烈神社に郷士されています。


長源寺」。
長源寺は鳥居忠政によって創建された寺院で、
元々は磐城平鳥居元忠の菩提を弔う為に開いたもの。
鳥居家の山形転封によってこれに従って移動し、
その後は山形に定着しています。
この長源寺の境内において三郎右衛門の処刑が行われ、
その遺体はそのまま境内墓地に埋葬されました。


旧山形藩主席家老水野三郎右衛門元宣終焉之地」碑。
三郎右衛門は山形藩降伏後、死罪は覚悟していましたが、
切腹の沙汰であろうと考えていたという。
しかし新政府より藩主水野忠弘斬首の命が下り、
これを聞いた三郎右衛門は致し方ないと謹んで受け、
長源寺にて刑を執行されています。


繁華街の隙間にある長源寺墓地の入り口。
墓地は建物に囲まれているので、
意外と地元でも墓地があるのを知らない人がいるかも。


水野元宣墓」。
三郎右衛門の処刑当日、長源寺に送られる道筋で人々は、
店を閉ざして家業を休み、哀悼の意を表したという。
また処刑後の家財没収の際は多数の人々が自発的に手伝い、
商人はそれらの人々に炊き出しを出したとされます。
当初の墓は土饅頭に石を載せた粗末な墓でしたが、
三回忌若しくは七回忌の際に、
現在の墓石が一夜にして何者かによって建てられたという。

長源寺墓地には奥羽鎮撫先導役として出陣し、
庄内藩と戦って戦死した赤星武義の墓もあります。

官軍赤星守人墓」。
赤星は目付馬廻差図役として従軍。
閏4月4日長崎落合口の戦いで戦死しました。
この時は奥羽鎮撫として戦っていますので、
官軍として戦死しています。
この墓碑は当初名前のみが刻まれていましたが、
後に「官軍」と付け加えられたという。

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