栃木県さくら市 喜連川陣屋跡

足利将軍家一族である足利基氏の系譜は、
鎌倉公方を世襲して関東を支配しますが、
4代鎌倉公方足利持氏永享の乱を起こし、
6代将軍足利義教によって滅ぼされました。
その際に一族の多くが殺されていますが、
赤子の足利成氏は許されています。

成氏は後に鎌倉公方に就任しますが、
関東管領上杉家と争って古河へ本拠を移し、
古河公方を名乗ります。
後に3代足利高基と弟足利義明が対立し、
義明は小弓公方を称して勢力を拡大。
4代足利晴氏後北条家と連携を組み、
国府台合戦で義明が討ち取られ、
小弓公方家は安房へ落ち延びました。
晴氏の息子足利義氏が継嗣無く死去した為、
古河公方の血筋は娘の氏姫だけとなり、
豊臣秀吉が名家の断絶を惜しんで、
小弓公方家足利国朝と氏姫を婚姻させます。
※国朝の姉嶋姫は秀吉の側室となっており、
 喜連川3500石を与えられていますが、
 これを国朝に譲っています。

国朝が死去すると氏姫は弟足利頼氏と再婚。
頼氏は関ヶ原の戦いの後に所領を安堵され、
喜連川姓を名乗っています。
※氏姫は頼氏との子喜連河義親を生み、
 名家の血筋を残しました。


大手門」。
喜連川陣屋跡は喜連川庁舎となっており、
入口に模擬の大手門が建てられています。
陣屋に似つかわしくない立派な櫓門で、
時代考証されていない模擬の櫓門。


跡地は庁舎及びその駐車場となっています。


お丸山公園」。
陣屋跡背後の丘陵は喜連川城跡で、
お丸山公園として整備されています。
喜連川は古くから喜連川塩谷家の所領で、
その支配は約400年にも及びましたが、
17代塩谷惟久が豊臣秀吉に改易され、
古河公方足利家に与えられました。


何かあるかと登ってみましたが、
整備された遊歩道があるだけで、
遺構や碑などはありません。
が植えられているようですので、
季節には花見が楽しめるのでしょう。


喜連川神社」。
丘陵南側の麓にある神社。
喜連川総鎮守で歴代領主に崇敬されました。
藩政時代は天王宮と呼ばれていたようです。

喜連川神社を南参道から出る。

御用堀」。
幕末期の藩主喜連川煕氏により、
開削されたという用水路。
煕氏は領民思いの名君とされ、
財政再建新田の開墾藩校設立など、
暮らしの改善や教育に熱心に取り組み、
特に御用堀は水確保に役立ったという。

喜連川藩は表高は無く実高も5000石。
大名としての概念には当てはまらず、
藩としての規定も満たしてはいません。
しかし10万石相当の国主並の家格を有し、
参勤交代軍役等の諸役負担が免除され、
幕府とも主従関係が存在しませんでした。
これは足利将軍家の支族である為、
後裔の徳川家が筋目を重んじた為。
もちろん勝手が許されながらも、
喜連川藩は自主的に参勤を行っており、
一応の主従関係は結ばれてはいたようです。

上記の9代藩主喜連川煕氏は、
家老二階堂貞明と藩政改革を進めますが、
煕氏は志半ばの文久元年に死去。
跡を継いだ喜連川宜氏も早逝してしまい、
水戸藩より喜連川縄氏が迎えられました。
※縄氏は徳川斉昭の十一男で徳川慶喜の弟。
戊辰戦争では新政府軍に恭順しますが、
煕氏の死後に失脚していた二階堂貞明は、
縄氏が会津藩に内通していると讒言。
激怒した縄氏は貞明と息子貞則を処刑し、
誠意を見せる為に白河や会津に、
20名の藩兵を派遣するに至ります。

その後、縄氏は喜連川姓から足利姓に改称。
後に政府から諸侯と認められて華族となり、
明治17年に当主足利於菟丸は、
子爵に叙されています。

【喜連川藩】
藩庁:喜連川陣屋
藩主家:喜連川家
分類:5000石、外様大名(国持格大名)

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