吉田松陰の石巻での宿泊先の西側に、
永巌寺という大きなお寺があり、
その北側に大聖不動明王があります。
「大聖不動明王」。
参道の石段下の両脇に石碑が並んでおり、
その中に細谷十太夫らの碑があります。
「追悼 細谷十太夫真英 石母田正輔 先生」碑。
細谷十太夫は仙台藩の下級武士の生まれで、
元服して京都藩邸に詰めていましたが、
芝居小屋で伊達騒動の演目内容に腹を立て、
乱闘騒ぎを起こして国許へ戻されています。
国許では石巻鋳銭場詰めの傍ら、
隠密として様々な職種に扮して諸藩を巡り、
情報収集を行っていましたが、
白石の戦いでの仙台藩の不甲斐なさを嘆き、
女郎屋に[仙台藩細谷十太夫本陣]と張り出し、
身分を問わずに兵隊を募集。
これに侠客、博徒などの無頼が集まり、
[衝撃隊]が結成されて隊長となります。
黒装束に八咫烏の半纏をまとったことから、
[鴉組]と通称されたこの無頼集団は、
主に夜襲という戦法で新政府軍を恐れさせ、
30余の戦で負け知らずであったという。
奮戦むなしく仙台藩が降伏すると、
藩より預かった大金を隊士に分け与え、
隊を解散して自らは雲隠れしています。
後に大赦令が発令されて仙台に戻り、
北海道の開拓などを手掛け、
西南戦争が勃発するとこれに参加。
日新戦争でも軍夫千人隊長として従軍し、
後に竜雲院住職となり戦死者を弔いました。
石母田正輔は初代石巻市長。
石巻市の基盤整備に尽くし、
水道事業、港湾や河川整備を行っています。
この碑は細谷十太夫の三十回忌と、
石母田の十七回忌を記念し建立されたもの。
大聖不動明王のお堂を出て、
北側のJR石巻駅方向へ。
「石巻鋳銭場跡」。
石巻駅の南東付近の地名は鋳銭場で、
そこに藩の鋳銭場があった事が伺えます。
享保年間以降、仙台藩は銭貸不足で、
幕府の許可を得て多くの鋳銭を行いました。
石巻は輸送に便利であったようで、
幕末まで石巻で鋳造が行われており。
京都から戻された細谷十太夫は、
ここの役人として働いています。
現在は小さなお堂が残っているのみで、
中にはお地蔵さんが祀られていました。
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