真田幸村(信繁)の系譜が仙台藩で続き、
幕末の当主真田喜平太は西洋砲術を学び、
開明派の藩士であったという。
その真田喜平太の墓が西光寺にあります。
「西光寺」。
浄土宗の古刹で創建は鎌倉時代中期という。
石巻は東日本大震災の津波により、
甚大な被害を受けています。
この西光寺のある門脇地区も同様でしたが、
瓦礫が本堂の前に集まって津波を防ぎ、
水没はしましたが倒壊は免れました。
この西光寺は榎本艦隊が石巻に寄港した際、
榎本武揚が宿泊したともされます。
「舊仙臺藩真田君墓」。
本堂前にある真田喜平太の墓碑。
藩主小姓を経て江戸で西洋砲術を学び、
砲術兵法全般の師範や軍制改革を行った他、
町奉行や藩校養賢堂幹事も務めており、
文武両道の才を持っていたとされます。
藩主にも多くの建白を行っていますが、
保守的な藩体制を変えるには至らず、
その多くが採用されていません。
なかでも慶応3年に献白した郡県制建白は、
諸大名の領地や人民を全て天皇に返し、
郡県制による統治を行うべきというもので、
新政府を先取りした先進的な案でした。
しかし仙台藩は反新政府の道を選び、
奥羽鎮撫総督下参謀世良修蔵を暗殺し、
諸藩に呼び掛けて列藩同盟を結ぶに至り、
万策尽きた喜平太は隠棲しています。
後に藩主伊達慶邦に乞われて復帰し、
軍監となりますが時は既に遅く、
指揮を執る前に仙台藩は降伏しました。
維新後は石巻に移住して教育に尽くし、
西南戦争で巡査の募集が行われた際、
総長に推薦されていますがこれを辞退し、
石巻で余生を過ごし明治20年に死去。
後に子孫により成覚寺に改葬されますが、
墓碑は西光寺に残されました。
「真田幸歓妻斎藤氏墓(右)」、
「真田昌棟墓((左)」。
真田喜平太墓の隣にある妻と息子の墓碑。
こちらも墓碑だけのようです。
■関連記事■
・宮城県刈田郡蔵王町 仙台真田氏ゆかりの郷
蔵王町にある仙台真田家のゆかり地。
・長野県上田市 上田城跡
真田家の元居城の上田城跡。
・宮城県白石市 白石城
片倉小十郎家が城代を務めた白石城跡。