宮城県白石市 白石城

一国一城令大坂夏の陣の後、
慶長20年閏6月13日に制定され、
諸大名に居城以外の城の破却を命じたもの。
各大名は領地の要所に支城を建設し、
敵の侵攻を防ぐ要塞としていましたが、
これにより諸大名の軍事力は下がります。

この一国一城令の「一国」の意味は曖昧で、
一国が令制国なのか、大名の領地なのか、
場合によって解釈が異なっていました。
例えば長州藩毛利家の場合、
令制国は周防国長門国の2国。
一国一城が令制国であるならば、
2つの城を持てることになりますが、
毛利家は支藩を含め萩城以外破却しました。
※幕府は岩国城破棄は求めなかったという。
一方で一令制国に複数の大名がいる場合、
それぞれが城を持っていました。
また徳川家に近い大藩東北諸藩では、
一令制国に2城や3城も持った藩もあり、
柔軟に運用された法令だったようです。

この白石城仙台藩の支城として、
一国一城令の例外となった城で、
片倉小十郎景綱を初代とする片倉家が、
江戸時代を通じて代々城代を務めています。
片倉景綱は伊達政宗の腹心として重用され、
伊達家の主な戦の殆どに参戦し、
また対外交渉でも活躍。
豊臣秀吉小田原征伐参陣を進言し、
政宗に決意をさせたのも景綱でした。
次代片倉小十郎重綱大坂の陣に参陣し、
後藤又兵衛を討ち取るなどの戦功を挙げ、
父景綱に劣らぬ名声を得ました。
また3代目の片倉小十郎景長も、
伊達騒動において改易の危機を救い、
伊達家で特別に重んじられています。


二ノ丸大手二ノ門跡」。
白石城は現在、二ノ丸跡、本丸跡が、
益岡公園として整備されています。
ここはニノ丸の大手門だった場所。
櫓門は城下の当信寺に移築現存しています。


当信寺山門(白石城東口門)」。
こちらが移築現存する二ノ丸大手二ノ門。
二階の表裏に眼像窓が開けられており、
幕末期には太鼓が置かれ、
城下に時を知らせたとされています。


二ノ丸大手二ノ門跡を抜けて、
白石城歴史探訪ミュージアムを過れば、
白石城の象徴である三階櫓が見えてきます。


大手一ノ門」。
とてもこじんまりとしていますが、
本丸の大手口です。
なんだか勝手口みたいですね。


大手二ノ門」。
こちらは立派な櫓門です。
微妙に枡形になっています。


本丸跡」。
本丸跡は広々とした公園となっていますが、
当時は所狭しと御殿建物が建っていました。
ここで列藩同盟が成立する白石会議が、
慶応4年閏4月11日、23日に開催され、
新政府に対抗する事が決まっています。


片倉小十郎景綱公頌徳碑」。
初代小十郎景綱の頌徳碑。
本丸跡の中央に聳え立っています。


白石城三階櫓」。
平成7年に復元された天守。
木造による本格的な復元天守なのですが、
実は天守と呼ばれた事は一度も無く、
大櫓」と呼称されていたようです。
もちろんどう見ても天守ですので、
幕府への配慮だったのでしょう。


鐘堂」。
三階櫓の横の突出平場に建つ鐘堂。
非常の時に鳴らされた他、
毎年7月の土手と堀の清掃の際も、
この鐘を鳴らしていました。
非常時も大掃除も総動員ですね。
鐘は桑折町の傳来寺に現存しています。


三階櫓内。
展示品は多くありません。
その分広々としていますね。


三階櫓からの本丸跡の眺め。

本丸を出てニノ丸北側へ。

神明社」。
ニノ丸北側に鎮座する神社。
白石城鎮守、領内総鎮守として庇護を受け、
社領二貫三百文、日供米月一俵を、
片倉家より献じられていました。
坂上田村麻呂が創建したとされています。


厩口門跡」。
名称とおり馬の出入りをさせていた門で、
神明社の参道になっています。
ここにあった櫓門は延命寺に移築現存。


延命寺山門(旧白石城厩口門)」。
白石城にあった時の厩口門は、
入母屋式だったようですが、
移築の際に切妻式の門に改築され、
山門らしくされたようです。


片平観平碑」。
門脇にある片倉家家臣片平観平の顕彰碑。
片平観平は水害に悩む領民の為に、
私財を投じて治水工事を行い、
蔵元大堰切通隧道を完成させた人物。


鳥羽伏見の戦い新政府軍が勝利し、
会津藩追討が仙台藩等の諸藩に命じられ、
仙台藩等は会津藩に降伏を求めますが、
会津藩はこれに応じませんでした。
奥羽鎮撫総督府が諸藩に出兵を即した為、
仙台藩は会津藩境まで出兵。
会津藩と謝罪降伏の交渉を行いますが、
降伏内容に折り合いがつきません。
閏4月11日。
米沢藩と仙台藩は奥羽諸藩に招集を発し、
列藩会議が白石城で開かれます。
そこで赦免の嘆願書が作成され、
直ちに奥羽鎮撫総督に提出していますが、
これが却下された為に、
諸藩は征討軍解兵を宣言。
5月3日に奥羽列藩同盟が仙台で成立し、
後に長岡藩及び北越の5藩が加わり、
奥羽越列藩同盟となりました。

後に輪王寺宮が白石城に入り、
奥羽越列藩同盟の盟主に就任。
白石城は列藩同盟の拠点となりましたが、
敗戦後に新政府軍に没収されてしまい、
片倉家は領地を数百分の一に縮小されます。
一時は盛岡藩南部家が減転封され、
白石藩13万石となりますが、
盛岡藩士や盛岡領民達の復帰運動により、
南部家は移動せぬまま盛岡に復帰。
白石は政府直轄となって、
そのまま廃藩置県を迎えました。

最後にご当地グルメを紹介。

白石うーめん」。
白石のご当地グルメです。
白石城下に鈴木味右衛門という人物がいて、
父が胃を病んで何日も絶食していたという。
そこで親思いの味右衛門は、
何か胃も優しい食事はないかと探し、
旅の僧から油を使わない麺の製法を聞き、
これを父に食べさせたところ、
胃病は快方に向かったという。
領主片倉小十郎は味右衛門の親孝行を称え、
味右衛門の麺を温麺(うーめん)と名付け、
温麺の生産を奨励したと伝えられています。

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