片倉小十郎家は伊達政宗に仕えた家で、
初代小十郎景綱がその名を轟かせました。
家格は「一門」に次ぐ「一家」でしたが、
家臣で唯一支城を拝領しています。
白石家の墓所は市街西側の愛宕山にあり、
一般の墓地を越えた奥にあります。
「白石城主片倉家歴代廟所」。
3代小十郎景長がこの地を歴代墓所に定め、
初代景綱と2代重長の墓所を、
菩提寺傑山寺の片倉家墓所より移し、
以後、当主のみの墓所としてます。
阿弥陀如来坐像という非常に珍しい墓石。
10体の阿弥陀如来坐像が並んでおり、
そのひとつひとつに個性があります。
歴代当主の墓石が並ぶ中、
7代村廉正室は藩主伊達吉村の娘である為、
例外的に当主と同列に並べられています。
「喜楽院殿壽一禮公大居士」。
阿弥陀如来坐像の並ぶ中で、
端に一つだけ位牌型の墓石が建っています。
これが幕末の当主10代片倉宗景の墓。
11代以降は傑山寺に墓所があるようで、
戊辰戦争時の当主12代片倉邦憲の墓は、
残念ながらここにはありません。
片倉家の墓所を後にして、
少納言喜多の墓所へ。
道路に出て国道133号線を西に少し進み、
石段上の観音堂脇からさらに上へ登ります。
「喜多の墓」。
初代景綱の異父姉で、
伊達政宗の乳母であった喜多の墓。
早くから少納言と呼ばれていたようですが、
少納言が与えられた記録はないようです。
片倉家旗指物黒釣鐘は喜多の考案とのこと。
喜多の墓よりさらに進み田村清顕の墓所へ。
杉の立ち並ぶ中に田村家墓所があります。
「田村清顕の墓」。
田村清顕は三春城主だった人物で、
伊達政宗の正室愛姫の父。
田村家は小田原征伐に不参陣の為に改易。
清顕は一時隠棲していましたが、
後に片倉家に召し抱えられの事となり、
子の定広、良種は片倉姓を名乗りました。
「坂上田村麿廿九代孫三春城主」
と台座に刻まれています。
「阿菖蒲の墓」。
真田幸村(信繁)の娘阿菖蒲の墓。
大坂城の落城の際、
片倉重長に乱取りされた女の中に、
阿梅という幸村の娘がいることが判明し、
側室に迎え正室死去後に継室としています。
後に幸村次男大八と阿菖蒲が片倉家を頼り、
大八は片倉守信と改名し、
阿菖蒲は片倉定広の室となりました。
「真田左衛門佐幸村御墓(中央)」。
阿菖蒲が建てた父真田幸村の供養墓。
真田大八は後に仙台藩士片倉守信を名乗り、
以後は仙台真田家として続きました。
仙台真田家については、
次回の記事で触れたいと思います。
片倉家の幕末最後の当主片倉邦憲は、
戊辰戦争に敗れ1万8千石から、
僅か55俵の禄米に転落。
家臣7495人の前途が危ぶまれます。
そこで家臣らが蝦夷地移住を提案し、
嘆願書を新政府に提出。
これが受理され幌別郡移住支配が命じられ、
家臣や領民の希望者が幌別へ移住し、
寒さや飢えとの戦いの他、
咸臨丸沈没などの困難を乗り越え、
開墾を進めていったようで、
これが現在の登別市となりました。
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小十郎家が白石城の城代を務めました。
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田村家の居城であった三春城跡。
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仙台藩の支藩一関藩田村家の陣屋跡。