片倉家で養われた真田信繁の次男大八は、
真田四郎兵衛を名乗り藩士となりますが、
正体を隠すために片倉守信と改めています。
家格は永代召出二番座、蔵米三十貫文で、
後に蔵米支給から知行地に直されました。
知行地は矢附村、曲竹村、倉埣村の3村で、
矢附村に在郷屋敷が構えられています。
「仙台真田氏ゆかりの郷」。
蔵王町矢附舘にある仙台真田家のゆかり地。
「真田の郷歴史公園」、
「真田幸村公血脈の地」、
「仙台真田氏本願の地」など、
名称が統一されていませんが、
とにかく在郷屋敷のあった場所。
秋桜の咲く道を歩くと2つの墓碑が現れ、
アニメキャラっぽい幟が建てられています。
「幸村十一世 真田豊治墓」。
幕末の仙台真田家分家の当主真田豊治の墓。
経歴がよくわかっていないようで、
金成代官所の役人をしていた人物らしい。
慶応2年に発生した百姓一揆の際、
「真田豊治を郡方役人に任じる事」、
という要求が出されていたようですので、
民衆に慕われていた人物であったようです。
維新後は小学校で算術教師を務めました。
「真田幸清筆子塚」。
仙台真田家8代当主真田幸清の筆子塚。
嘉永6年に家督を長男真田幸歓に譲り、
真田塾を開いて読み書きを教えています。
明治4年に死去したようで、
門弟達によってこの碑が建てられました。
矢附舘を後にして白石市内の当信寺へ。
「当信寺」。
当信寺は片倉重長の継室阿梅の菩提寺。
この寺に阿梅と、
仙台真田家初代片倉守信の墓があります。
「片倉四郎兵衛守信(大八)の墓」、
「阿梅姫の墓」。
片倉守信は当信寺に葬られていましたが、
その墓碑は昭和17年に発見されるまで、
存在自体が知られていなかったという。
片倉家当主が阿弥陀如来坐像なのに対し、
阿梅の墓は如意輪観音像となっています。
何故か墓石を飲めば虫歯に効くとされ、
沢山の人々に削り取られて、
ほぼ原形留めていません。
「白石老人の墓」。
2人の墓の横にある白石老人の墓。
江戸時代初期に仙人のような老人いて、
文武百芸で何事にも精進し、
白石城下の人々に尊敬されていたという。
なんだかよくわかりませんが、
そういう人物のお墓だそうです。
信守の子辰信が許しを得て真田姓に復姓。
但し正式な真田信繁の血筋ではなく、
偽装した真田信尹の血筋としてでした。
後に3代信成が弟英信に領地を分与して、
仙台真田家の分家が成立しています。
この分家が先程の真田豊治の家となります。
幕末の仙台真田家9代当主の墓は、
白石市や蔵王町には無く石巻市の西光寺。
9代真田喜平太幸歓は開明的な人物で、
藩政府に改革案を次々に建白していますが、
保守派に大半は却下されたようで、
それでも藩の軍制改革を主導しました。
奥羽鎮撫総督府の会津藩追討令の際には、
仙台藩兵を率いて土湯峠まで出陣。
会津藩を討っての新政府へ協力する事が、
最善の策と考えていたようでしたが、
藩の方針は真逆の奥羽越列藩同盟に向かい、
幸歓は職を辞して隠棲。
結果的に仙台藩は敗れる事となり、
領地の多くを失う事となっています。
名将信繁の血脈を庇護した仙台藩でしたが、
幕末期にその再来の幸歓を要しなから、
幸歓の献策を取り入れる事無く敗北。
しかしながら幕府に睨まれながらも、
真田家を守った事は評価に値します。
■関連記事■
・宮城県石巻市 西光寺/真田喜平太墓所
幕末の当主真田喜平太幸歓の墓碑。
・長野県上田市 上田城跡
真田家の元居城である上田城跡。
・宮城県白石市 白石城
片倉小十郎家が城代を務めた白石城跡。
・調子に乗って武田二十四将も調べてみる①
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