安政の地震と現代の地震③

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安政江戸地震の際に将軍は何してたのか?
当時の将軍の動きを語る資料は、
どうも見つかっていないらしい。

とはいえ重臣達の動きを記した記録はあり、
本丸御殿から吹上庭園(現吹上御苑)に、
非難したと推測されるようです。

また、江戸城内の被害も大きかったようで、
死者も多数(倒壊での圧死)出たようですが、
城内の事は他言無用であった為、
殆ど記録がありません。
但し城内の修復費用は12900両とされ、
相当の被害があった模様。

やがて諸大名が将軍を気遣い登城します。
一番乗りは庄内藩主酒井忠発
彼は地震発生後に火事装束に着替え、
出火した同族の姫路藩上屋敷に駆けつけ、
自らの陣頭指揮で足軽8人を救います。
一段落して登城すると、
本丸御殿から逃れた将軍徳川家定に遭遇し、
拝謁一番乗りの名誉を得る事が出来ました。
幕末期の酒井忠篤もそうですが、
庄内藩の殿様は中々のやり手です。
さすが譜代筆頭!

さて施政者である幕府の救済活動ですが、
炊き出し握り飯梅干沢庵が支給。
3万人近い人々がこの救済を受けました。
被災者には御救米も支給されています。

家を失った人々には御救小屋が用意され、
寝る場所と食事が与えられました。
これが市中に5ヶ所設置され、
3000人近い人々を収容しています。


御救小屋図」。

その他、けが人の手当て、日用品の確保、
市中の取締、諸物価の上昇や売り惜しみ、
買占めを禁じる等の処置を行いました。
また、これとは別に富裕商人や寺院、
大名などの施行も行われています。

対応は現代と変わりませんね。
変わらないという事は、
発展していないのかもしれませんが・・。

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東京都千代田区 江戸城本丸/皇居東御苑
 将軍は本丸御殿から吹上庭園に避難。

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