五百禩神社を出て山手側の招魂社へ。
「招魂社」。
○○招魂社とかいう名前は無く招魂社のみ。
境内は西公園という名称となっていますが、
公園らしきところは一段下の広場くらいです。
「西南役記念碑」。
階段上がって右手側にある記念碑。
台座には小倉処平以下、
戦死した飫肥士族の名が刻まれます。
右手側には西南戦争戦死者の墓碑が並ぶ。
「嗚呼小倉處平之墓」。
飫肥隊を率いて戦った小倉処平の墓。
小倉は飫肥藩士長倉喜太郎の次男に生まれ、
同藩士小野九十九の養子となります。
※後に小倉に改姓。
藩校振徳堂で書記や句読師、寮舎長を務め、
武技は平部右金吾より槍術を取得。
維新後、飫肥藩の長崎留守居役に就任し、
英語教育の必要性を感じ、
優秀な子弟の長崎留学を推進し、
小村寿太郎らを長崎に派遣しています。
その後に上京して大学南校で舎長に抜擢され、
貢進生制度を建議してこれが採用され、
小村らが大学南校の入学を許されました。
後に小倉は大学権小丞准席となっています。
明治3年には欧米への学制視察を命じられて、
翌年に文部権大丞としてヨーロッパに渡航。
英国と仏国で予定を変更して経済を学び、
帰国後の征韓論争で江藤新平が辞職すると、
これに同調して飫肥に帰郷しました。
江藤が佐賀の乱に敗れて小倉を頼った際には、
これを匿って四国への逃亡の手助け、
その罪で禁固刑となっていますが、
出獄後は再び上京し大蔵省に出仕しています。
西南戦争が勃発するとこれに参加する為、
伊東博文に[日向の人心を鎮める]と訴えて、
通行の便を図って貰っています。
その帰路で伊藤に本心を書いた手紙を出し、
西郷軍への参加の意志を伝え、
伊藤は騙されたと悔しがったという。
飫肥へ帰ると既に300余名が参加しており、
小倉も一隊を率いて遅れて参加。
野村忍介の薩軍奇兵隊の傘下となりますが、
和田越の戦いで負傷し延岡川坂で療養します。
西郷軍が可愛岳を突囲した事を知ると、
これを追いますが、合流が困難であると悟り、
高畑山の中腹で自刃しました。
小倉は[飫肥西郷]と称えられるように、
人望の厚い人物だったようです。
左手には後の戦役の戦没者の墓碑が並びます。
西南戦争の戦死者は一応賊軍側ですが、
他の戦役の戦死者は英霊ですよね。
ある意味こういうのも珍しいかもしれません。
護国神社と改称せず招魂社である所以か?
地元では賊軍とか官軍とか関係なく、
祖国の勇者として祀られてるのでしょう。
「社殿」。
小さな社殿はさほど珍しくはありません。
西公園内の歴史展望台という場所には、
○○禅師と刻まれた円筒形の墓が並んでいます。
これは旧報恩寺の歴代住職の墓でしょうか?
これについては調べていませんが、
もしそうなら廃寺の際に移されたのでしょう。
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飫肥藩伊東家の居城跡。
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薩軍奇兵隊は臼杵城を占領しました。
・佐賀県佐賀市 本行寺/江藤新平墓所
小倉に匿われていた江藤新平の墓。