小倉処平は飫肥藩出身の秀才で、
郷党より「飫肥西郷」と称された人物。
西南戦争で飫肥隊を率いて戦い、
奇兵隊総軍監にもなっていますが、
和田越えの決戦で負傷してしまいました。
「小倉處平加療の地」。
決戦に敗れた西郷軍は長井村へ後退。
処平はこの北川村の神田氏宅で療養します。
西郷隆盛は決戦翌日に解軍を宣言し、
多くの兵が政府軍に投降。
西郷は残存兵と共に可愛岳を突破しました。
療養中の処平はこれを後で聞いており、
西郷らの後を追いますが、
合流する事が出来ずに自刃しています。
「内部」。
資料や実物大人形が置かれています。
処平は飫肥藩士長倉喜太郎の次男で、
同藩士小野為右衛門の婿養子となりました。
※後の小野姓から小倉姓に改姓。
安井息軒の門下として儒学を学び、
藩校振徳堂の句読師に任じられています。
明治3年に上京して大学南校少舎長となり、
その校風改革に尽力し大学権大丞に就任。
明治4年に欧米に留学しており、
明治6年まで各国で諸学を学びました。
翌明治7年1月に帰国していますが、
征韓論争に敗れた西郷が下野した事を聞き、
自らも飫肥に帰っています。
佐賀の乱を起こした江藤新平や、
香月経五郎を匿った事で捕縛されており、
その罪で禁固100日の服役。
服役後は大蔵省に出仕しました。
西南戦争が起こると旧飫肥藩士らも、
西郷軍に合流しようとする動きがあり、
これを抑える為に帰郷しますが、
最終的に処平も参加するに至っています。
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小倉処平の墓があります。