大友宗麟は豊後の戦国大名で、
明、琉球、カンボジア、ポルトガルと、
海外貿易により経済力を高め、
最盛期には九州6ヶ国を支配しています。
キリシタン大名としても知られ、
豊後にフランシスコ‣ザビエルを迎え、
西洋文化を積極的に受け入れました。
「宗麟公園」。
宗麟の墓所は宗麟公園として整備され、
2つの墓碑が建てられています。
元々は宗麟の隠居地であり、
終焉の地となっていた場所とされ、
宗麟はここで天正15年(1587)に死去。
キリスト教式で葬られたようですが、
後に伴天連追放令が発せられると、
長男大友義統が仏式に改葬します。
その墓は大友家の衰退により荒廃し、
後に墓碑が新調されましたが、
近年にキリスト教式の墓も建てられ、
宗麟の墓所は公園として整備。
現在に至っています。
「瑞峯院殿前羽林次将
兼左金吾休巷宗麟大居士」。
大友宗麟の仏式の墓。
寛政年間(1789-1801)に建立された墓碑で、
元大友家家臣の末裔とされる臼杵城豊が、
自費を持って建立したものとされます。
どういう人物か詳しくは不明ですが、
大友家衰退後に帰農した人の子孫でしょう。
「DON FRANCISCO
OTOMO SORIN」。
大友宗麟のキリスト教式墓碑。
昭和52年に大分市長上田保を発揮とし、
「大友宗麟公顕彰会」が結成。
宗麟のキリスト教式墓碑が建立されました。
設計は世界的建築家磯崎新とのこと。
「伝吉岡妙林尼墓」。
伝大友家家臣吉岡鑑興の妻妙林尼の墓。
妙林尼は耳川の戦いで夫鑑興を亡くし、
跡を継いだ子の吉岡統増と共に、
鶴崎城に居住していました。
統増は島津家の豊後侵攻に対抗する為、
宗麟のいる臼杵城に出陣しますが、
島津の別動隊3000が鶴崎城を強襲。
これに妙林尼は老兵や女子供と共に籠城し、
16度の攻撃を退けたとされます。
後に和睦となって開城しますが、
豊臣秀吉の九州征伐の情報を機に、
撤退する島津勢に奇襲を仕掛け、
将兵63の首級を挙げました。
その後の妙林尼の消息は不明ですが、
この墓は妙林尼のものと伝わっています。
宗麟の子大友義統は秀吉により、
豊後一国を安堵されていますが、
後に文禄の役での敵前逃亡で改易。
後に孫の大友義乗が大身旗本となりますが、
その子大友義親の代に無嗣断絶となりました。
大友家の名跡は義乗の甥大友義孝が再興し、
高家(1000石)となって存続しています。
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大友宗麟のかつての居城跡。
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