下関市豊田町 毛利秀包夫人引地君の墓

小早川元包の正室である引地君は、
豊後の戦国大名大友宗麟の末娘。
父同様に洗礼を受けたキリシタンで、
洗礼名はマセンシアであったという。
久留米城主となった小早川秀包に嫁ぎ、
秀包もその影響を受けて洗礼。
久留米城下に天主堂も建設しています。
後にキリスト教が禁教となっていますが、
引地君はそれでも信仰を続けていたという。
後に秀包が改易されて長州藩を頼ると、
毛利元鎮ら子供達と共にこれに従い、
秀包の死後は元鎮と共に殿居に隠棲。
余生を息子と過ごし78歳で死去しました。

引地君の墓は神上寺となっていますが、
神上寺から直線でも500m離れた場所に、
ひっそりと建っています。

墓所の近くまでは車で行けますし、
少々の駐車スペースがありますが、
舗装道路ながら狭くて荒れています。
とはいえ上の写真の場所までは良いですが、
ここから歩いて登らなければなりません。
訪問の際は滑りにくい靴を推奨。


高雲照朝大善定尼」。
小早川(毛利)秀包正室桂姫(引地君)の墓。
周辺の者達から「から墓」と呼ばれており、
キリシタンであった事が知られていたようです。
毛利輝元はキリスト教を極端に嫌っており、
領内での迫害も行っていますが、
引地君に棄教を要求したところ、
逆に宣教師の来訪を具申したようで、
輝元は棄教を諦めてしまったとされ、
引地君は死去するまで信仰を守ったという。

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 夫である小早川元包の墓。
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 子の毛利元鎮の墓。
福岡県久留米市 久留米城跡
 かつての居城跡。