下関市豊北町 西楽寺/毛利秀包墓所

関ヶ原の敗戦で改易となった小早川秀包は、
毛利輝元によって再び召し抱えられて、
小早川姓を捨てて毛利秀包を名乗ります。
小早川秀秋裏切りを忌み嫌った為。
しかしその翌年に病死してしまい、
家督は嫡男の毛利元鎮が相続。
元鎮は父秀包の亡骸を滝部に葬りました。


西楽寺」。
滝部にある真宗本願寺派の寺院。
本堂の裏手に秀包の墓がありますが、
この西楽寺は後になって創建されたもので、
現在は秀包の墓を管理しているようです。


瑞光院殿玄済道叱大居士」。
毛利秀包の墓。
秀包は元就の九男で71歳の時の子という。
備後国の有力国人大田家の養子となった後、
小早川隆景の養子となっています。
その後、人質として豊臣秀吉の許に送られ、
容姿端麗であった為に秀吉に優遇され、
戦場でも数々の戦功を挙げました。
立花宗茂とは義兄弟になるほど意気投合。
朝鮮出兵では宗茂と共に抜群の武勇を誇り、
多くの戦功を挙げています。
秀吉の養子木下秀俊が小早川家に迎えられ、
※後の小早川秀秋。
秀包は廃嫡されて別家を創設。
関ヶ原の戦いでは西軍に与し、
大津城を宗茂らと共に落城させていますが、
本戦で西軍が敗れた為に改易となり、
毛利家に帰参して毛利姓に戻しました。
長州への帰路で病となり赤間関で死去。
キリシタン大名であったようです。


瑞光公神道碑」。
吉敷毛利家9代毛利房直が建立したもので、
二百周忌を記念して顕彰したもの。
秀包の孫毛利元包は後に吉敷に移封となり、
吉敷毛利家として続いています。

代わって一門の毛利元景が、
阿川、滝部を領す事となり、
本拠を阿川に置いて阿川毛利家となります。
滝部は領主の本拠から離れましたが、
その好立地によって以後も栄えており、
以後も豊北地域の中心となりました。

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