毛利元就の両川吉川元春と小早川隆景。
嫡男毛利隆元を補佐し、
中国制覇に大きく貢献しており、
一般的に三本の矢の教えで知られるように、
隆元とその次代毛利輝元を盛り立てました。
吉川元春は戦上手として知られ、
その戦跡は76戦64勝。
元就も戦では元春には勝てんと称賛するほど。
次代は次男吉川広家が継ぎ、
関ヶ原の戦いで東軍勝利に貢献。
その為に後に疎んじられらはしましたが、
幕末には幕府と長州藩との橋渡しをした他、
幕長戦争では長州藩と共に戦い、
両川の末裔としての体裁を果しています。
しかしながらもう一方の小早川家は、
悲惨な運命が待っていました。
小早川隆景は勇猛な兄元春とは違い、
知略に優れた人物として知られ、
父の素質を受け継いだ知将として知られます。
豊臣秀吉の軍師黒田勘兵衛もその知略を称え、
隆景が死去した知らせを聞くと、
「日本に賢人はいなくなった」と、
嘆いていたという。
豊臣秀吉も隆景を大きく評価しており、
毛利家からの引き離しを謀って独立大名とし、
豊臣政権の五大老のひとりに据えています。
しかし跡を継いだ小早川秀秋は、
関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、
その功績に岡山55万石を与えられましたが、
自らの行為を悔いて酒で体を壊して早逝。
小早川家は無嫡断絶となってしまいます。
また秀秋以前の養嫡子で弟の小早川秀包は、
秀吉の甥秀秋が小早川家の養子となった為、
別家を設けて筑後7万5千石を領し、
久留米城を築城して居城とました。
朝鮮の役の功で13万石の加増されましたが、
関ヶ原の戦いで西軍として戦った為に改易。
秀包は改めて毛利家の家臣に戻り、
秀秋の裏切りで汚名となった小早川姓を捨て、
嫡男毛利元鎮は吉敷毛利家となりました。
このように安芸小早川家は断絶してしまい、
吉川家が幕末に宗家に貢献したのに比べ、
小早川家は何一つ貢献できていないようです。
時は過ぎて明治に至り、
小早川家の名跡を再興しようと、
元長州藩主毛利元徳の三男である三郎が、
小早川家当主として再興。
しかし三郎は継嗣なく早世した為、
弟四郎により男爵小早川家が創設されました。
子孫は自動車の技術者となっており、
現在に至っているようです。
幕末に貢献できなかった小早川家ですが、
その流れを汲む吉敷毛利家は継続し、
門閥の中でも正義派として活躍。
系譜が全く幕末に貢献してないかといえば、
決してそうではなかったようです。
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毛利家に戻した小早川秀包の系譜。
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小早川秀包の居城であった久留米城。