福井県小浜市 准藩士屋敷跡

新保宿で降伏した天狗党敦賀に送られ、
首領武田耕雲斎以下353名が斬首となります。
幕末史最大の虐殺であるこの処刑は凄惨を極め、
その血は近くの川を赤く染めたという。
しかし天狗党全てが処刑された訳ではなく、
幼少の者や小者など110名が遠島処分となり、
小浜藩に預けられていましたが、
翌年に遠島から謹慎処分となると、
小浜藩は彼らを佐柿に移します。


準藩士屋敷跡」。
佐柿にある準藩士屋敷の跡。
小浜藩は佐柿に新築の屋敷を設け、
彼らをここに収容する事にしますが、
小浜藩は天狗党に同情的であった事から、
準藩士格の待遇を与えていたという。

彼らの中に耕雲斎の孫武田金次郎もおり、
祖父や父は敦賀で斬首されていますが、
幼年という理由で処刑を免れていました。
新政府によって許された彼らは、
水戸藩への帰還を命じられて帰郷しますが、
一族は諸生党によって根絶やしにされており、
復讐心からか金次郎らは報復を開始。
諸生党やその家族らを虐殺し、
水戸藩を混乱の渦に巻き込みます。
この報復合戦により水戸藩の人材は枯渇し、
初期の尊王攘夷運動を主導した水戸藩は、
新政府を主導することは出来ませんでした。

準藩士屋敷跡より山手で登ると、
国吉城跡の碑が現れます。

若狭 國吉城」碑。
国吉城は粟屋勝久が築城した城で、
勝久は若狭守護武田家の重臣でしたが、
越前守護朝倉義景による若狭侵攻に対抗し、
当主武田元明一乗谷に囚われた後も、
国吉城に立て籠もって抵抗と続けました。
後に織田信長が勢力を伸ばしてくると、
これに味方して朝倉攻めに参加。
一乗谷一番乗りの武勲を挙げています。
国吉城は朝倉の猛攻に耐え続けた為、
難攻不落の城とも称されており、
織田信長も国吉城に宿泊しました。


佐柿町奉行所跡(若狭国吉城歴史資料館)」。
国吉城はその後廃城となっていますが、
周辺は小浜藩の領地となっており、
佐柿町奉行所が置かれて周辺を支配しました。
言及はされていませんが、
隼藩士扱いの天狗党の残党達は、
この奉行所が監視していたのでしょう。

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