来迎寺境内で行われた処刑は凄惨を極め、
三間四方の穴を5ヶ所掘って、
斬首した死体を放り込み、
土を盛って13基の墓が建てられています。
その血は近くの川を赤く染めたという。
幹部の首級は塩漬けにされた後、
故郷の水戸へ送られており、
3日間水戸城下を引き回された後に、
那珂湊にて晒されて野捨とされたようです。
水戸の政敵市川三左衛門ら諸生党は、
天狗党の家族らをことごとく処刑。
耕雲斎の妻延子は首を抱かせたうえで、
子供達共々斬首されました。
「武田耕雲斎等ゆかりの地」。
松原神社の東側、来迎寺西側に墓所があり、
武田耕雲斎等ゆかりの地となっています。
写真右手は「水戸烈士殉難之碑」。
「水戸烈士追悼碑」。
参道脇にある巨大な石碑。
民間企業による建立とのこと。
「澤田信之介 天狗党」墓碑。
こちらも参道脇に建てられています。
手違いで墓碑に漏れたりすると、
こういう墓が建てられる事はありますが、
漏れていないので建てられた理由は?
宮司の家柄なので仏式が嫌だったのかな?
「武田耕雲斎之像」。
墓所の前に凛として立っています。
武田耕雲斎は筑波山挙兵には参加せず、
宍戸藩主松平頼徳の大発勢と共に行動し、
戦闘の経緯から筑波勢と共に戦い、
天狗党の首領として担ぎ上げられました。
成り行きで首領になったわけですが、
藤田小四郎率いる筑波勢とは同志であり、
一蓮托生の覚悟で首領になったのでしょう。
「天狗党墓所」。
土が盛られた場所に墓碑が並びます。
斬首された13基の墓碑の他、
戦死者と戦病者の墓碑が加えられています。
墓碑にはぎっしりと名前が刻まれており、
数の多さに天狗党の悲劇が感じられます。
末路の凄惨さがクローズアップされますが、
水戸周辺での蛮行も隠されてはいけません。
略奪行為や焼討など義軍とは呼びにくく、
その後の市川三左衛門ら諸生党による虐殺。
その報復としてのさいみ党による虐殺。
どれも悲惨であり他の幕末期の話と比べ、
別世界の話のように感じられてしまいます。
この事件は派閥抗争の最たるものですが、
派閥抗争は普通は藩内で決着が付きます。
諸藩でも弾圧の例は沢山ありますが、
これほどの藩外を巻き込んだ件は皆無で、
水戸藩以外では起こり得なかった事。
御三家の尾張藩や紀州藩で起こっても、
こうはならなかったでしょうし、
長州内訌戦でも幕府は動いていません。
普通、内乱の鎮圧は藩内で行われるもので、
藩の範囲内で処理されるべきものですが、
水戸藩では早い段階で諸藩を巻き込み、
収拾の付かない状況に陥っています。
幕末において尊攘運動を牽引した水戸藩は、
内訌によって歴史の表舞台から脱落し、
以降は殺戮を繰り返すに至りました。
悲惨さゆえに大河ドラマ等では使えず、
子供達に教え辛い事件でもある天狗党の乱。
今回敦賀の天狗党史跡を巡ってみましたが、
まだその全貌を知るには至っていません。
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