米国のオバマ元大統領が就任した際、
発音が同じであるとして知られた小浜市。
勿論勝手に知名度が上がった訳ではなく、
市民団体や行政の主導で行われたもので、
町おこしにも色々あるものだと感心します。
小浜は若狭国の国府が置かれていた地で、
室町期には守護職若狭武田家の拠点となり、
武田家が後瀬山城を築城しています。
戦国時代に朝倉義景が勢力を拡大すると、
守護職若狭武田家の庇護を名目に、
当主であった武田元明を連れ去り、
若狭国を支配下に置きます。
後に織田信長によって朝倉家が滅びると、
若狭国は丹羽長秀に与えられており、
後瀬山城は大規模に改修されて、
巨大な城に変貌したとされています。
関ケ原の戦い後は京極高次に与えられ、
山城であった不便な後瀬山城を破棄して、
小浜湾の三角州に平城が築城されます。
これが小浜城で利便性が重視され、
近世城郭として小浜藩の政庁となりました。
後に京極家は松江藩に転封となり、
忠利系雅楽頭酒井家の酒井忠勝が入封。
城の拡張が進められ天守も建てられます。
「小濱神社」。
小浜城本丸跡は小濱神社となっており、
社殿を囲むように石垣が残されています。
「酒井家邸宅門(現酒井会館玄関)」。
小濱神社の鳥居の向かって右手には、
元藩主家の邸宅から門が移築されています。
現在の門はこじんまりしてますが、
縮小されているとのこと。
さらに右手には櫓台があり、
石段が設置されています。
どういう構造だったのか気になるところ。
「蜘蛛手櫓跡」と「組屋地蔵尊」。
鳥居左手のこちらも櫓台。
脇には小さな祠が建てられています。
小浜城の築城にあたって人柱が立てられ、
小浜の商人組屋六郎座衛門が娘を献じ、
人柱となって小浜城が建てられました。
後に酒井忠勝が小浜藩主であった頃、
毎夜女の忍び泣く声が聞こえたという。
城代家老三浦帯刀は人柱の娘の事を聞き、
地蔵を造ってこれを供養。
その地蔵を本丸守護としましたが、
後に地震によって石垣が崩れ落ち、
地蔵はその諸石に交じって行方不明。
昭和入って石垣修復中に地蔵が見つかり、
現在地に置かれました。
「拝殿」。
ガラス張りの中々お洒落な拝殿です。
小濱神社は初代藩主酒井忠勝を祀る神社で、
明治8年に旧本丸内に建立されたものです。
「古呂美橋の石」と「井戸」。
大きな平たい石は石橋だったもので、
その石橋で八百比丘尼が死んだと伝えられ、
比丘尼は転んで死んだ為に、
古呂美橋と名付けられたという。
これが本丸に運び込まれたとされる他、
酒井家の時代にアブラギリの栽培を奨励し、
その実は[ころび]と呼ばれており、
形がこの石に似ていたともいう。
井戸はお抱え力士が水を浴びたとされます。
ああそうですか・・・。
「天守台」。
三重三階天守が廃藩後も残っていましたが、
明治7年に売却撤去されています。
西側(本殿裏手)の通路。
かなり狭く城跡では見たことが無いタイプ。
当時からこの大きさであったのかは不明。
「八助稲荷大明神」。
小濱神社の境内社。
八助という書状を運ぶ中間がおり、
江戸-小浜間で15日は掛かるところを、
八助は6日程度で終わらせていたという。
後にその道中の小田原宿で、
犬に噛み殺された白狐が見つかりますが、
その首に酒井家の紋の文箱が付いていた為、
この事が小浜に伝えられてました。
数日前より八助の姿が見えなくなっており、
八助が白狐だったのだという事となって、
それ以来八助稲荷明神として祀られました。
小浜藩は梅田雲浜を輩出した藩ですが、
12代藩主酒井忠義は佐幕派であり、
京都所司代を務めており、
安政の大獄にも関与しています。
忠義は桜田門外の変後に隠居しますが、
次代の酒井忠氏も佐幕派として行動し、
天狗党の乱にも藩兵を派遣しました。
鳥羽伏見の戦いでも旧幕軍として参加し、
楠葉台場を担当しています。
敗戦後に小浜へ戻る途中、
偶然にも山陰道鎮撫総督軍に遭遇。
その場で総督西園寺公望に降伏しました。
以後は北陸道鎮撫使先鋒を命じられ、
藩兵を派遣し348名が転戦しています。
【小浜藩】
藩庁:小浜城
藩主家:忠利流酒井雅楽頭家
分類:10万3000石、譜代大名
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