相良藩主田沼意尊は天狗党と戦い、
何度も天狗党に煮湯を飲まされており、
また関東の惨状も見ています。
田沼は天狗党を厚遇してる事に激怒し、
天狗党が引き渡されると鰊倉に押し込めて、
彼らの衣服を剥いで手枷足枷をはめ、
一日に握飯一つと湯水一杯のみを与えます。
狭い鰊倉に大人数が押し込められて、
魚の腐臭と汚物の臭いが混じる中、
冬の寒さも相まって悲惨な状態でした。
「松原神社」。
天狗党の武田耕雲斎ら411柱を祀る神社。
毎年10月10日には例祭が執り行われ、
処刑された天狗党の霊をしのんでいます。
「水戸烈士記念館」。
彼らは16棟の鰊倉に入れられたようで、
この倉はその中のひとつ。
昭和29年の築港工事で取り壊され、
その1棟がここに移築され、
もう1棟は水戸に移築されたようです。
乱後も鰊倉が使われていた事が驚き。
「永建寺」。
田沼は永建寺を本陣とし、
その境内に仮白洲を設け、
天狗党の吟味が執り行われています。
この間にも加賀藩は助命嘆願していますが、
田沼の吟味に影響はありませんでした。
「浪人騒動決断白洲の址」碑。
境内にひっそりとある石碑。
吟味は形式的なもので、
各1回で四日間行われており、
353名が斬首、
遠島157名、追放185名、
水戸渡し130名と決定されました。
「来迎寺」。
死罪が決定された353名は、
この来迎寺で斬首されています。
元々境内には町人用の刑場があったようで、
武士としてではなく浮浪之徒の扱いでした。
斬首役は福井藩、彦根藩などに命じられ、
彦根藩士は率先してこれを務め、
殺された主君の恨みを晴らしたという。
福井藩士はこの役目を辞退し、
さっさと国元へ帰っていきました。
ちなみに敦賀藩の家老殺害事件では、
廃藩置県で吟味がうやむやになってしまい、
自裁を強く求める下手人の敦賀藩士4人が、
この来迎寺の境内で自刃して果てています。
「永巌寺」。
凄惨な話の中で救いのある話としては、
この永巌寺住職が天狗党の少年達を、
仏門に入れると引き取りました。
※15人程だったという。
彼らは後に水戸へ戻ったとされています。
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・福井県敦賀市 天狗党幽居の三寺
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武田耕雲斎ら天狗党の墓所。