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第二次長州征伐で幕府は長州侵攻を決定。
芸州口、大島口、小倉口、石州口から、
長州藩の領内へ侵攻する事とします。
これに対する長州藩側の戦略としては、
他の戦線は防戦の方針を取りながら、
石州口では先制攻撃を加えて進軍し、
浜田城まで奪ってしまおうという事となり、
作戦立案の大村益次郎が総指揮官となって、
藩軍を率いて出陣しました。
慶応2年6月15日夜半、
長州藩兵は石見に侵攻し津和野藩領へ。
津和野藩の抵抗はなく、
翌6月16日未明には横田村に到達。
浜田藩との藩境扇原関門へ向かいます。
扇原関門は浜田藩士岸静江が唯一人で守り、
長州兵はこれを斃して関門を突破。
机崎神社(記事はこちら)に軍勢を集結させ、
大村益次郎ら幹部が稲積山に登り、
幕軍の様子を伺った後に軍儀を開いて、
正午頃に益田に向けて進軍します。
また海路から清末育英隊が高津村に到着し、
こちらも益田に進軍しました。
益田には自領の浜田藩兵が万福寺に、
福山藩兵が医光寺、勝達寺に布陣し、
和歌山藩兵は後方20数kmの三隅に待機。
夕刻頃に益田川を挟んで撃ち合い、
日暮れになって横田村まで引き上げました。
清末育英隊は益田に向かいますが、
戦闘は行わず日暮れと共に高津村まで退却。
初戦は小競り合い程度となっています。
6月16日の戦闘。
6月17日早朝に長州藩兵は益田に進軍。
益田川の敵前渡河に苦戦しますが、
別動隊の清末育英隊が背後から攻め立て、
この隙に渡河した本隊は万福寺を攻撃。
乱戦となった後に浜田藩兵は退却し、
医光寺、勝達寺も放棄されて、
浜田藩軍、福山藩軍は益田から撤退します。
この戦いで福山藩14人、浜田藩11人、
幕府軍目付三枝刑部以下幕臣3人が戦死。
長州藩側も13人の犠牲者を出しました。
6月17日の戦闘
長州は益田に留まって民心の掌握に努め、
戦火で炎上した家屋の鎮火に尽力し、
敵側の戦死者を発見すると手厚く葬り、
負傷兵を見つけると治療を施し、
回復すると路銀を与えて送り返すなど、
大いに慈悲を民衆に見せています。
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