早馬神社の近くに大石進の墓所があります。
大牟田市宮部近辺。
細道なので車で行くには注意が必要ですが、
墓所には駐車場があります。
宮部村周辺のお墓が全て集められ、
共同納骨堂に納められたようで、
その際に大石進の墓も改葬されました。
「共同納骨堂」。
共同納骨は議会で建議されたもので、
土地の有効利用の為に墓所や墓石は破壊され、
その際に大石進の墓も壊される計画でしたが、
幸いにも史跡という事が考慮され、
保存される事となっています。
「大石武楽種次墓(左)」、
「寛量院殿武雄達道居士(右)」。
納骨堂向かって左前側にある大石進の墓。
左側の墓が大石進種次の墓で、
天保の三剣士のひとりはこの人物。
柳河藩藩士大石種行の長男として生まれ、
剣術師範であった祖父や父に習い、
武者修行で腕を磨きました。
父の隠居後に柳河藩の剣術師範を拝命し、
各地から門人が集まってくるようになります。
その後、藩命で江戸勤務となりますが、
出府中に名門道場に次々訪れて、
名のある剣豪を打ち破ったという。
同じく三剣士と称される男谷精一郎や、
北辰一刀流の千葉周作とも戦っており、
後に再出府した際にはその噂が轟き、
江戸中の道場主が戦慄し恐慌したとされ、
多くの剣術家が入門に詰めかけました。
柳河藩の剣術師範の他にも、
三池藩の剣術師範も兼ねており、
宮部村の本部道場は隆盛を極めています。
文久3年に死去。
右側は2代目大石進種昌の墓で、
父の才能を色濃く受け継いだとされ、
容貌や技、態度まで父に酷似していたという。
千葉周作の後継者千葉栄次郎も破っており、
彼も江戸で目覚ましい戦績を残している為、
種次と種昌を大石進という一人の人物と、
誤解される事も多かったという。
明治11年、死去。
納骨堂の右側には今村家の墓所があります。
「今村五郎衛門長利先生之墓(左)」、
「今村廣門先生之碑(右)」。
今村長利は柳河藩の普請役だった人物で、
江戸中前期に新田開拓の多くを手掛け、
有明海干拓に成功して多くの良田を得ました。
今村廣門は長利の子孫で、
大石進に師事して大石新陰流を極め、
免許皆伝を受けています。
維新後は周辺各村の戸長を務めた他、
地域の武道振興に尽力しており、
自らも剣道大会で優勝するなどしました。
明治33年、死去。
大石神影流は現在も続く数少ない流派。
今も大石家によって受け継がれており、
現在は7代目となっているようです。
■関連記事■
・福岡県大牟田市 早馬神社/大石道場跡
大石新陰流道場の稽古に使われた神社。
・ 福岡県柳川市 柳川城跡
柳河藩の剣槍術師範を務めています。
・福岡県大牟田市 三池陣屋跡
三池藩の剣槍術師範も務めています。