福岡県大牟田市 紹運寺/三池藩立花家墓所

元和7年(1621)に旗本立花種次は、
5千石を加増されて1万石に達します。
大名となった種次は新町に三池陣屋を構え、
同時に菩提寺の紹運寺を創建。

伯父の柳河藩初代立花宗茂の援助を得て、
藩政の確立を精力的に行こないますが、
10年の治世の後に病死してしまい、
紹運寺に葬られています。


紹運寺」。
寺名は家祖である高橋紹運に因みます。
紹運は大友宗麟の重臣で、
立花宗茂、立花直次の実父にあたり、
文武に通じ徳智謀達し、
諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、
古今稀なる名将であったという。
島津勢筑前侵攻に対し紹運は、
僅か763名で岩屋城に籠城。
2万を超える島津勢に攻撃されますが、
紹運の采配で徹底抗戦を続けて、
763名全員討死の壮絶な戦いを繰り広げ、
島津勢に大打撃を与えました。
紹運も壮絶な割腹を遂げたとされ、
島津勢は攻略に4500余の死傷者を出し、
その後の筑前侵攻が困難となっています。


本堂」。
本堂は創建当時のものようです。
岩屋城落城の7月27日には、
毎年法要が営まれているという。

紹運は家督を次男の高橋統増に譲っており、
統増は宝満山城を守っていましたが、
岩屋城落城後に宝満山城を開城し、
島津家の捕虜となりました。
その後の豊臣秀吉九州征伐を経て、
兄の立花宗茂と共に秀吉の直臣となり、
三池領を与えられています。
朝鮮出兵に従軍して戦功を挙げ、
諱を直次に改名。
関ケ原の戦いでは兄と共に西軍として戦い、
改易されて浪人となりました。
その後、徳川秀忠に召し抱えられ、
常陸国柿岡5千石を得て、
後に姓も高橋から立花に改め、
子の立花種次の代に大名となっています。


立花家墓所」。
羅漢堂の横の石段を上ると、
立花家の墓所となっており、
正面奥に初代種次の墓が建てられています。


金剛院殿従五位行
 前主膳正一叟全心大居士(右)」、
覺源院殿前泉州刺史
 真性紹天大居士(左)」。
三池藩初代藩主立花種次と、
6代立花種周の継嗣立花種徳の墓。
種次は父直次の死後に家督を継ぎ、
旧領に加増転封となって諸侯に列します。
転封後は一時柳河城下に屋敷を構えますが、
三池に陣屋を建設してこれに移り、
旧臣らを集めて藩政を確立しました。
6代種周の継嗣種徳は、
寺の説明板では8代藩主となっていますが、
※種次も2代となっています。
実際には家督を相続する前に死去し、
7代は弟の種善が継ぎました。
しかし種善は陸奥国下手渡に転封。
藩庁を下手渡陣屋に移転しています。

紹運寺境内の藩主の墓は、
初代種次のものだけですが、
この紹運寺の道向かいの法輪寺跡に、
歴代藩主の墓所があります。

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