入江九一

吉田松陰門下の四天王の一人。
入江九一について。

この人は四天王と云われながら、
吉田稔麿と同様に肖像が残されていません。
明13年出版の「近世遺勲高名像伝」に、
微妙な絵が残されているだけ。

四天王の中でも認知度は低い方で、
キリスト教の四大天使でいえば、
ウリエルといったところでしょう
※他はミカエル、ガブリエル、ラファエル。
・・・わかり辛いですね。

この人は四天王の中で一番の年上。
松下村塾の「暴れ牛」晋作は、
一度怒り出したら誰も宥めることができません。
これを鎮めることができるのは、
師匠の松蔭とこの九一のみだったという。
年の功なのか晋作が苦手としていたのか、
入江が宥めると晋作は大人しくなったらしい。

どうしょうもない頑固者をなだめるには、
①一目置いている人物が話す。
②怒りが収まるツボを心得ている。
③その人物が苦手であまり話したくない。
④その人物に言われると、
 バカバカしくなって怒りが収まる。
のどれかでしょう。
今となっては、想像するしかありませんが、
晋作は、
自分がまともに論議できるのは九一だけ
と松蔭に手紙を書いていますので、
①か②のどちらかでしょうね。

安政5年、松陰は老中間部詮勝の暗殺を計画。
その計画に九一も賛同しますが、
計画を察知した藩は松陰を投獄。
九一も弟入江和作と共に自宅謹慎となります。
安政6年にも松陰は伏見要駕策を計画。
しかし今度の計画は殆どの塾生は反対し、
過激になっていく松陰から離れていきましたが、
九一と和作はどこまでも松陰に従います。
その後、安政の大獄で松蔭は処刑。

文久2年、九一は松蔭の意思を継ぎ、
志士として活動を開始。
翌年には久坂玄瑞と共にに光明寺党を結成し、
下関の攘夷戦に参加。
晋作が奇兵隊を結成すると、
九一もいち早く奇兵隊に参加し、
幹部として晋作等から厚い信任を受けます。

八月十八日の政変から池田屋事件と、
長州藩が不利な状況へと向かい、
長州藩軍は京都へ進発。
九一も久坂らと共にに出陣し、
長州藩は禁門の変で敗北します。
鷹司邸に立てこもった久坂らは九一に後を頼み、
九一は鷹司邸から脱出を測りますが、
敵兵に銃撃され負傷。その場で自刃しました。

九一は久坂と違い生き残るつもりでした。
残念な事に致命傷を負って自害したのは、
まったくの不運です。

禁門の変を脱出して長州に帰っていれば、
身分の低い九一は重要視されず、
処罰や暗殺はされない筈ですので、
内訌戦幕長戦争と活躍したでしょう。

晋作の名参謀になっていたかもしれません。

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萩市 長寿寺(入江九一などの墓所)
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