石川県金沢市 妙慶寺/松平大弐墓所

松平大弐家松平康定を初代とし、
始め柴田勝家に仕えていましたが、
柴田家が滅ぶと前田利家佐々成政に仕え、
最終的に前田家の重臣に戻って、
一時は万石を領す程であった家系。
江戸時代には人持組4千石となって続き、
家老職を務める事もありました。

幕末の当主松平大弐康正は、
継嗣前田慶寧附の京都詰家老となり、
勤皇思想に厚かった慶寧を補佐します。
長州藩に同情的であった慶寧は、
禁門の変の前夜に在京藩臣を集め、
今後について議論したとされ、
激論の末に宮中警護の任を放棄して、
京都を離れ中立の立場を取る事が決定。
兵をまとめて金沢へ帰藩の途につきました。

慶寧の一行が海津まで進んだ際、
自分達の帰還が敵前逃亡と批判されたと知り、
また金沢から加賀八家長連恭の軍勢が到着し、
京都へ引き返すように即されます。
最終的に別の加賀藩兵が京都に入り、
慶寧は金沢に帰還して謹慎が命じられ、
宮中警備の任を放棄した責任を取り、
側近であった松平大弐が切腹する事となります。
大弐は海津の正行院で見事に切腹。
首級は検分の為に金沢に送られた後に、
野田山墓地に埋葬されました。

墓は後の平成13年に菩提寺の妙慶寺に改葬。
妙慶寺墓地に大弐の墓があります。

妙慶寺」。
康定は利家に付いて佐々成政と戦い、
越中極楽寺本陣として戦い勝利します。
その縁で康定が金沢に移った際に、
極楽寺も金沢に移って妙慶寺と改称。
康定の生母妙慶尼の菩提寺となりました。
後に住職の向誉が一羽のトンビを救い、
そのトンビが天狗の化身であった為、
夢枕に天狗が現れて八角の板を授けられ、
その板を庫裏の柱に取り付けます。
以後は金沢で大火が何度起こっても、
妙慶寺が延焼する事はなかったようで、
人々はこれを天狗の神通力として、
天狗さんの寺と呼ぶようになったという。
本堂は改装中でした。


贈従四位大弐松平君碑(右)」、
梅原君之碑(左)」。
境内にある松平大弐梅原可也の碑。
大弐の碑は大正6年に建てられたもので、
海津の正行院の碑も同年に建てられています。

梅原可也は加賀藩士で、
江戸に出て漢学を川田甕江に、
洋学を福澤諭吉に学んだとされ、
明治14年に金沢区長等を務めた人物。

妙慶寺の墓地は本堂向かって右手側。

松平康定墓」。
墓地の中央にある初代当主松平康定の墓。
関ヶ原の戦いでは一番槍の功で感状を与えられ、
大坂の陣では武者奉行を務めています。
2代藩主前田利常にも重用されたようで、
金沢城城代にも就任しました。


賢隆院殿哲鑑是三居士
 芳樹院殿哲宗〇〇〇姉
」。
加賀藩士遠藤是三(数馬)の墓。
数学天文学測量術などに精通し、
日時計測量具等を制作しました。
また加越能三州地図金沢分間絵図等、
地図の作製も監修してます。
藩の作事奉行普請奉行も務め、
加賀藩の洋学普及にも努めていますが、
元治元年に81歳で死去しました。


贈従四位松平大貳之墓」。
13代当主松平大弐康正の墓。
古い五輪塔には破損を修繕した跡があり、
これが野田山墓地にあったもので、
宝篋印塔は新たに建てられたものでしょう。

松平大弐康正の辞世の句は、
露時雨何かに徒けて気草臥」。
現在も子孫が現物を持っているという。

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