下関市長府 田上菊舎史跡

田上菊舎は江戸後期の女流俳人
菊舎は文政9年に死去しており、
その生涯は幕末には至っていませんので、
今まで触れてはおりませんでしたが、
幕末史跡を調べていると何度も登場する為、
ここいらでちゃんと調べてみました。

菊舎は在郷の長府藩士田上由永の娘として、
宝暦3年(1753)に豊浦郡田耕村に誕生。
やがて同村の村田利之助に嫁ぎますが、
6年後に夫に先立たれた為に俳句を始め、
長府の俳人五精庵只山に菊車の号を授かり、
実家に帰って復籍しました。


女流俳人 菊舎尼宅址」。
菊舎の父田上由永は菊舎が嫁いだ後、
長府城下に移住しており、
安永7年(1778)に復籍した際は、
ここに戻って来たようです。

後の天明元年(1781)にになる事を決意。
長府を出て清光寺で得度した後、
俳諧の旅へ出ました。
以後は句作風雅の旅に人生を捧げ、
その足跡は全国に及びましたが、
文政9年(1826)に長府にて死去しています。


徳應寺」。
長府金屋町の真宗本願寺派の寺院。
境内は長府幼稚園となっており、
一般には入れなくなっています。
菊舎の墓は本堂横の墓地にあるのですが、
勝手には参れません。

大乗寺法華寺の墓地と繋がっており、
申し訳ないとは思いつつも、
隣の墓地から入らせて頂きました。

一字庵菊舎尼墓」。
菊舎の墓はこの徳應寺の墓の他に、
中之町の本覚寺にもありますが、
本覚寺の墓は遺髪墓のようで、
遺骸はここに埋葬されているという。

菊舎は田耕で生まれていますが、
田耕は中山忠光が殺された地であり、
忠光の事を調べるとよく登場しましたし、
また本陣伊藤家とも親交があったようで、
伊藤家の持仏堂空月庵を借用し、
約1年程そこに滞在していますので、
伊藤家の墓所を調べる段階で出てきました。
また吉田松陰の生家である樹々亭は、
俳人八谷聴雨の別荘だったもので、
その名は菊舎が付けたものだったという。

このように菊舎がよく現れていた為に、
今回の記事となったのですが、
僕にはどうも俳句の才が皆無のようで、
菊舎の俳句を読んでもよくわかりません。
また全国には松尾芭蕉の句碑が多くあり、
訪問した場所に芭蕉碑があったりしますが、
俳句が詠めれば素敵だろうなとは思いつつ、
殆どスルーで触れられません。

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 松陰生家は樹々亭は菊舎の命名。
下関市豊北町田耕 四恩寺跡
 菊舎は住持らと雅会を催したという。