我々幕末ファンはウクライナ戦争に対し、
[幕長戦争(第二次長州征伐)に似てるかも?]
とどこかで思いつつも、
様々な理由で言うも憚られており、
少しでも口に出そうものならば、
[全然違う!]と物知り顔で言われる始末。
ただ人の世の理は学校の揉め事であれ、
世界規模の争いであれ似たフシはあり、
全然違うと言われればそうでないと言いたい。
ならばどこが違うのか?何が似ているのか?
ちょっと考察してみたいと思います。
まず根本的な違いは大義名分でしょうか?
長州藩は禁門の変を起こしており、
この件で幕府は長州追討の勅命を受け、
35藩15万人を動員して征長軍を編成。
藩主毛利敬親と世子毛利定広の責任を問い、
厳罰を科す事を目的としています。
一方ロシアにはウクライナのNATO加盟阻止、
親露派の保護などの大義を掲げますが、
国際的には認められない理由です。
これが[全然違う]と言わしめる要因であり、
-幕府とロシアを一緒にしてほしくない-
と潜在的に否定したくなる要素で、
それ以外にもその後の虐殺行為等、
是が非でも否定したくなるのが心情でしょう。
とはいえ幕府としての大義名分は、
禁門の変に対する長州藩の処罰であり、
降伏条件の三家老の切腹、四参謀の斬首、
藩主父子の謝罪文書提出、山口城破棄、
五卿の筑前移転と条件は遂行されており、
征長軍は解兵されて一件は落着。
第二次長州征伐の大義は明白ではなく、
内訌戦で抗幕政権が誕生した為に、
既に終わった筈の処分を再び蒸し返すのは、
道理に反するものという見方もできます。
※もちろんこれは大義名分の話で、
長州側の態度や方針とは別。
次に大きく違うのは国家体制の違い。
そもそもロシアとウクライナは別の国。
ロシアの主張は内政干渉であって、
侵攻そのものに大義はありません。
一方の幕府と長州藩の関係は幕藩体制で、
封建的主従関係を持っており、
征長は内乱の鎮圧ともいえますので、
ウクライナ戦争とは根本が違います。
ソ連時代であればまた違ったでしょう。
上記のように全然違うと考えられますが、
やはり似ている部分が無い訳ではありません。
強大な軍事勢力に寡兵で対峙し、
そして今まで善戦している様は、
ロシアは幕府と似ても似つかぬけれど、
ウクライナは長州藩と似ているかもと、
一部の長州藩嫌い以外は感じるところです。
※こちらに関しては長州藩と一緒にするなと、
イデオロギー的に否定する人も。
確かに国土防衛の士気が強いウクライナと、
郷土防衛の為に挙藩一致で臨んだ長州藩は、
士気が非常に高いのは似ています。
そしてNATO等の西側諸国が武器を提供し、
多くのロシア戦車が破壊された戦況は、
薩摩を介して最新鋭の武器を購入し、
数に勝る幕府軍を撃退した長州藩と、
似ていなくはありません。
ただ決定的に違うのは大島戦争以外では、
長州藩は藩領を犯されてはおらず、
むしろ浜田藩領、芸州藩領、小倉藩領と、
先制攻撃で攻め入っており、
長州藩領が戦場になっていない為、
民間への被害は攻め入った側の方でした。
※長州藩は占領地の民心掌握に努め、
略奪行為等は行われていません。
仮にウクライナ戦争でいえば、
ロシアが国境付近に配置した軍部隊を、
侵攻が開始される前に先制攻撃した状態。
もしそうなっていればロシアに大義を与え、
更に悪い結果になっていたかもですが、
当時の長州藩側の戦略としては、
かなり有効であったといえます。
このように違う部分もあれば、
どこが似ている部分もあるようです。
幕長戦争ではなく会津戦争に似ているとか、
箱館戦争に似ていると思う人もいるでしょう。
外国の戦争で酷似するものもあるかもです。
現在においてこのような泥臭い戦争が、
まさか起こるとは思いもよりませんでしたが、
実際に今この瞬間も戦闘が行われ、
罪も無い人々が被害にあっています。
似ている違うの議論よりも、
似ているとすればどのようにすれば、
違うとすればどのようにすれば、
この戦争が終わるのだろうかと考えるべき。
それこそが歴史を学ぶ意義でもあるのです。
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