東京都中野区 自証院墓地/吉井家墓所

自証院は新宿区にある天台宗の寺院ですが、
その墓地は中野区上高田にあります。
3代将軍徳川家光の側室お振の方は、
家光の長女千代姫を産んでいますが、
産後の肥立ちが悪く3年後に死去。
このお振の方の菩提を弔う為に建立され、
※お振の方の法名は自証院殿
境内に霊廟が建てられていましたが、
こちらは小金井市に移築されました。
江戸東京たてもの園に移築保存。

この日は上高田周辺を散策しており、
新宿の自証院自体には訪問しておらず、
墓地のみにお邪魔しました。
この墓地に吉井藩の藩主家の墓があります。

吉井家之墓(右)」、
吉井家先祖代々之墓(左)」。
吉井家は江戸時代は鷹司松平家を名乗り、
上野国の吉井藩藩主家でした。
将軍家光の御台所鷹司孝子の弟鷹司信平が、
家光より千俵二百人扶持を与えられた後、
紀州藩初代徳川頼宣の次女松姫を迎え、
紀州徳川家御連枝となって松平姓を名乗り、
鷹司松平家が創始されています。
5代将軍徳川綱吉に加増されて大名となり、
※綱吉の御台所は鷹司信子
吉井藩として廃藩置県まで続きました。
小大名ながら五摂家の鷹司家庶流で、
更に徳川家一門という高家格で、
御三家加賀前田家同様の大廊下詰
江戸時代を通じて非常に特異な存在であり、
公家から大名に転身した唯一の例です。
しかしながら小藩の事実は変わらず、
非常に高家格であった事から出費も多く、
常に財政難に悩んでいたようですが、
安政の大獄徳川斉昭が蟄居される際、
9代藩主松平信発がこれを伝える役を務め、
この功積で翌年より2千俵が支給された為、
財政は好転するようになったという。
維新後は速やかに新政府に恭順したようで、
10代藩主吉井信謹は松平姓を捨て、
所領地名である吉井を名乗りました。
明治12年に信謹は長男信宝に跡を譲り、
程なく吉井家から離籍しており、
※信謹は米沢藩12代上杉斉憲の五男で、
 信発の養子となって家督を継いでいた。

実家に戻った後に分家を創設。
故に歴代のうちで最後の藩主信謹のみが、
米沢の林泉寺に葬られています。

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