千葉県市川市 法華経寺

法華経寺は市川市中山にある日蓮宗大本山
下総の豪族富木常忍日蓮没後に出家し、
自邸に法花寺を創建。
日常と名乗って初代住持となりました。
また別の豪族大田乗明本妙寺を創建し、
その子日高が本妙寺の住持となり、
日高は日常を師と仰いでいます。
日常の死後はその遺言により跡を継ぎ、
本妙寺に留まりながら法花寺住持に就任。
それ以来も両寺の住持は兼務され、
後に古河公方足利晴氏によって、
諸法華宗之頂上という称号が贈られ、
両寺が合併して法華経寺となりました。


三門」。
大正15年再建の三門
[赤門]や[仁王門]とも呼ばれています。
扁額の揮毫は本阿弥光悦とされ、
[関東三額]と称されるもの。

三門より100m程の長い参道を進み祖師堂へ。

祖師堂」。
千葉県で最も大きな仏堂とされますが、
訪問時は残念ながら修復保全工事中
比翼入母屋造様式の全国唯一とされます。
国指定重要文化財


五重塔」。
元和8年(1622)建立の五重塔で、
加賀藩前田家の寄進によるもの。
国指定重要文化財。


頭山満胸像」。
玄洋社を創設した頭山満の胸像。
妙見堂の脇に建っています。
福岡出身の彼の像がある理由は不明。
頭山と親しい住持がいたようですが、
詳細はわかりません。
境内には蔣介石の胸像もあります。


法華堂」。
日常が建立した最初期の建物とされ、
法華経寺境内で最も古い建築物という。


聖教殿」。
鉄筋コンクリート造の仏塔形式の宝蔵で、
国宝日蓮御書や遺品等寺宝を収蔵します。

江戸末期に法華経寺の僧侶らが、
大奥奥女中など多くの婦女を騙し、
肉体関係を迫り貴重品も奪うなど、
悪行の限りを尽くしているとの風聞があり、
当時の寺社奉行阿部正弘が調査を開始。
これによって日啓ら数名の僧侶が捕縛され、
取り調べが行われます。
この日啓は塔頭智泉院の住職で、
将軍徳川家斉の側室お美代の方の実父。
娘を利用して大奥の女中達を智泉院へ招き、
若い美僧を揃えて接待を重ね、
次第にエスカレートしていったという。
将軍側室も絡む重大事件を見事に裁き、
日啓らは遠島処分となっています。
この事件で名声を得た阿部は、
後に老中首座にまで昇進しました。

ここに鯖江藩7代間部詮勝の墓があります。
墓所は本堂北側の墓地。

間部松堂翁墓」。
鯖江藩7代藩主間部詮勝の墓。
4代藩主間部詮熙の三男として生まれ、
兄の5代藩主間部詮允の急死により、
末期養子となって家督を相続しました。
寺社奉行大坂城代京都所司代を歴任し、
大御所徳川家斉によって西の丸老中に就任。
しかし水野忠邦に疎まれて辞任しており、
幕政に復帰したのは15年後の事で、
大老井伊直弼によって老中となっています。
勝手御入用掛外国御用取扱を兼務し、
後に勝手掛老中となりました。
安政の大獄では一橋派や尊攘志士らを弾圧。
間部の青鬼と恐れられました。
後に上洛して孝明天皇に拝謁し、
日米修好通商条約調印の事情を説明。
勅許を得る事に成功しています。
後に井伊と対立して罷免され、
桜田門外の変で井伊が暗殺された後、
政情の変化で老中在任時の失政を問われ、
1万石減封及び隠居謹慎となりました。
戊辰戦争時も会津藩との内通を疑われ、
再び謹慎を命じられて国許に戻りますが、
僅かのうちに許されており、
以後は東京に在住して明治17年に死去。
書画や詩歌が得意であったようで、
隠居後はこれに没頭していたとされ、
多くの良作を残したようです。

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