「獅子の廊下」古川薫

椋梨藤太は長州幕末史の最大の悪役です。
今年の大河ドラマ「花燃ゆ」においても、
その例外ではないでしょう。
彼の他小説での書かれ方は俗物そのものです。
しかし果たして本当にそうだったのでしょうか?
椋梨は遠近附士という長州藩では低い位の出で、
実直勤勉に役人仕事を続け、
その長年の実績を買われた為に、
派閥の人脈に引き込まれた人物でした。

江戸後期、財政の立て直しの為の改革で、
長州藩は村田清風を起用します。
しかし強引な手法が反発を生み改革は頓挫。
その末に村田は失脚し、
柔軟路線の坪井九右衛門が実権を握ります。
ここで坪井の派閥であった椋梨が、
初めて表舞台に登場。

しかし坪井の改革も頓挫した為、
変わって椋梨がトップとなり、
村田の後継者でもある周布政之助が、
ナンバー2という微妙な均衡の政権が誕生。
椋梨はそれから2度も失脚しています。
失脚すればただの下級藩士。
以前の人脈のおかげで無役とはなりませんが、
閑職の明倫館学頭や郡代官となり、
中央の政権には長く関わりません。

その間に、八月十八日の政変池田屋事件
禁門の変下関戦争第一次長州征伐と、
長州藩滅亡の危機が訪れます。
尊攘派に政権を任せるわけにはいかないと、
門閥などの俗論党に担がれ、
政権の中心に身を置くことになります。

それ以降は、ご存知のとおり。

しかし彼に弾圧されて死んだ藩士は15人
何百人と弾圧した水戸の市川三左衛門に比べ、
かなり見劣りしてしまいます。
市川は独断で弾圧を決行しましたが、
椋梨は藩主や他の重臣の許可を得ており、
彼一人を悪者とするには可哀想かも?

市川が派閥の維持というエゴで、
天狗党を弾圧したのに対し、
椋梨のは自藩を守る為の行動でした。

強大な幕府に対して徹底恭順という選択は、
極めて普通の・・・
そして最良の方法であったと考えられます。

後世の我々は結果を知っていますので、
どうしても否定的になりますが、
奇跡」。
実際に政権を担うものが、
これに期待するわけにはいかないのです。

彼の取った行動によって、
第一次長州征伐が中止されたことは、
紛れもない事実。
このおかげで長州藩に時間が与えられ、
軍備を整えられることができたのです。

椋梨の死後80年後の昭和18年。
俗論党の墓の所在がほとんどわかっていない中、
萩市江向の徳隣寺の過去帳から、
椋梨の墓が見つかりました。

■関連記事■
萩市 指月城跡
 獅子の廊下は指月城にありました。
長門市 周布政之助墓所
 周布政之助は椋梨の政敵。
萩市 芳和荘&野山・岩倉獄
 椋梨は野山獄で斬首されたという。

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