長崎県島原市 本光寺/島原藩松平家墓所

本光寺島原藩深溝松平家の領内菩提寺。
初代当主松平忠定は深溝に本光寺を創建し、
深溝松平家の菩提寺としましたが、
転封によって所領は数度変わっており、
歴代藩主の遺骸は所領や江戸から運ばれ、
深溝に本光寺に埋葬されました。

深溝松平家が島原藩に移封後、
初代藩主松平忠房が生母の菩提を弔う為、
当地にあった禅林寺浄林寺と改め、
深溝本光寺の末寺として再建。
後に隠居していた2代藩主松平忠雄が、
島原で死去した為に埋葬されており、
他に子女や側室の墓も建てられました。
明治2年に8代藩主松平忠和が廃寺とし、
柏野町にあった領内菩提寺の本光寺を移転。
現在に至っています。


山門」。
従五位以下の譜代大名の格式を持つ赤門
島原市で最も古い木造建造物とされ、
標高は島原城の天守頂上と同じという。


本堂」。
元々この地は島原氏の支城丸尾城の跡で、
沖田畷の戦いの激戦地であったようです。
後に島原藩主となった高力忠房が、
その供養の為に禅林寺を建立。
後に忠房が入封した際に浄林寺と改称し、
深溝本光寺の末寺とし、
明治初期に本光寺を移転させ、
深溝松平家の領内菩提寺となりました。
※大変ややこしいですが、
 深溝松平家入封後に浄林寺となり、
 これとは別に柏野町に本光寺があって、
 明治2年に浄林寺を廃して移転した模様。


墓所は本堂の裏手から。
藩主家墓所に続く石段脇に碑があります。

孝子松平好房公頌徳碑」。
初代忠房の長男松平好房孝行な子で、
常に行儀を正しくして父母に仕え、
自分の居間でくつろぐ時でさえ、
父母の居る方向に足を伸ばす事は、
決してしてなかったという。
将来を期待され継嗣となっていましたが、
21歳で家督を継ぐ事無く早逝。
修身の教科書にも掲載されていたようで、
戦前には意外に知られていたようです。
この碑は徳川家達の揮毫。


賀来佐一郎墓(左)」、
磯野波蔵源員定
 小澤文十郎源定明
 木下鋏之助源重賢
 高槻徳之進源元彰
(右)」。
藩医賀来佐一郎佐之の墓と、
戊辰の役奥羽戦死者の墓。
賀来は長崎シーボルトに学び、
天保13年に藩医として島原藩に招かれ、
種痘の接種や薬園造成に貢献しました。
隣は島原藩の戊辰役戦死者の供養墓で、
秋田戦争で戦死した四名のもの。


松平家一ノ御廟所」。
石段の頂上にある一ノ御廟所
琉球式城壁風の塀の珍しい墓所の中は、
玉垣で囲われた三河墓が並びます。


従四位松平姓源朝臣忠雄墓」。
島原藩2代(深溝松平7代)松平忠雄の墓。
分家の松平伊行の次男として生まれ、
初代忠房の長男好房が早逝し、
次男松平忠倫が暗愚であった為、
忠房の養嫡子に迎えられました。
養父忠房の隠居に伴い家督を継ぎ、
2代藩主となりましたが、
治世では凶作が続いて財政は悪化。
領内総検地を行う等の対策を行いますが、
実子の相次ぐ早世で精気を失い、
藩内は家臣が争って混乱が生じます。
また凶作や百姓の逃散、
養嫡子松平忠救の早世等、
相次ぐ自身の不幸に隠居を決意。
新たに忠救の実弟松平忠俔を迎え、
家督を譲って島原に隠居しますが、
翌年の享保21年に死去しました。

ここには他に忠房の実母福唱院
忠雄の子又八郎(善見院)と豊次郎忠英
その2人の母(側室?)、
5代松平忠精の継室正子(眞鏡院)の墓と、
早逝した子女の小さな墓があります。


松平家二ノ御廟所」。
4代藩主松平忠刻の側室妙貞院と、
早逝した子女の小さな墓があります。


松平家三ノ御廟所」。
初代忠房の次男松平忠倫の墓など。

2代藩主松平忠雄の墓は、
深溝の本光寺にもあるようです。
この島原の本光寺には常盤資料館があり、
藩主家ゆかりの資料を展示していますが、
訪問時は残念ながら閉館中でした。

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