東京都品川区 養玉院如来寺/宗家墓所

養玉院の前身は平安時代創建の三藐院で、
江戸城の築城に際して上野に移転し、
寛永寺山内に寺地を拝領して三明院と改称。
後に対馬藩宗家の菩提寺となり、
2代宗義成の正室福姫の院号から、
養玉院と改称ししています。
元禄11年(1698)に下谷坂本へ、
後の大正11年に大井へと移転。
大正15年に如来寺と合併しました。


養玉院如来寺」。
元々は別の地域にあった2つの寺院で、
如来寺本堂如来堂として移築され、
養玉院本堂がそのまま本堂として移築。
養玉院の寺歴は前回記載致しています。

如来堂裏にある植村家墓所から、
更に北西へ行った場所に、
対馬藩宗家の墓所があります。

宗家墓所」。
ほぼ同型の墓が並ぶ対馬藩宗家墓所。
植村家墓所と同様に合葬はされていません。


光雲院殿前對州太守四位拾遣
 性岳宗見大居士
」。
2代藩主宗義成の墓。
初代宗義智の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続し、
同年の大坂夏の陣に参戦しています。
領内菩提寺万松院の創建、銀山開発
領内検地等の事業を推進していますが、
先代が国書を偽造した事が発覚し、
改易の危機に陥りました。
これは家老柳川調興の処罰で事を収め、
改易を免れる事となっています。
42年の治世の後に死去。


天龍院殿前對州太守
 四位拾遣高巖宗屋大居士
(中央)」。
3代藩主宗義真の墓。
※右は2代正室養玉院(福姫)で
 左は3代正室圓照院(栗姫)です。

2代義成の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
朝鮮貿易の拡大や蔵前知行制導入、
新田開発や銀山開発等の財政改革を行い、
城下町や港の整備、藩校思文館の創設等、
対馬藩の全盛期を築き上げました。
35年の治世の後に隠居しますが、
隠居後も実権を握り続けたという。


霊光院殿従四位下行侍従兼對馬守
 心嶽宗觀大居士
(右)」、
大桁院殿従四位下兼對馬守
 眞乗宝輪大居士
(左)」。
4代藩主宗義倫と5代藩主宗義方の墓。
4代義倫は3代義真の次男として生まれ、
父の隠居により家督を相続しますが、
僅か2年で早逝してしまいました。
5代義方は義倫の弟でしたが、
兄の早世に伴い家督を相続。
隠居の父義真の在命中は実権を与えられず、
父の死後に親政を開始します。
既に貿易不振、銀山産出低下等より、
藩財政が悪化していましたが、
これを打開する事はできませんでした。


大雲院殿従四位侍従前對州太守
 玉橉高岳大居士
(中央右)」、
圓鏡院殿従四位侍従前對州太守
 正空妙因大居士
(中央左)」。
6代藩主宗義誠と8代藩主宗義如の墓。
6代義誠は3代義真の七男として生まれ、
8百石を分知され別家を立てていましたが、
兄の5代義方の死去に伴い家督を相続。
参勤交代中の大坂で倒れ、
12年の治世で病死しています。
8代義如は6代義誠の嫡男でしたが、
父の死去に若年であった為に、
叔父の宗方熈が7代藩主となりました。
方熈は僅か1年で隠居し、
それに伴って家督を相続。
慢性的な財政難や災害に悩まされ、
幕府から1万両の補助金を受けています。
20年の治世の後に疱瘡を患い、
37歳の若さで死去。

以上が養玉院如来寺にある藩主の墓で、
それ以外は移転時に失われたか、
始めから無かった模様です。

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 鳥栖郡の半分は対馬藩の飛地でした。