東京都港区 青山霊園/山川浩墓所

青山霊園にある山川浩の墓所。


山川家墓所」。
青山霊園の西十五通りにある山川家の墓所。
山川家之墓を中央に参拝者を囲むように、
内側に墓碑の正面が向いています。
山川家は織田信長に仕えたようですが、
何らかの理由で追放されたようで、
追放後は武田家に仕えました。
後に2百石で保科家に仕えていますが、
保科家が23万石の大大名となっても、
家禄は3百石程度であったという。
会津藩は極めて封建な藩風で知られ、
家老に昇進する出来るのは名門9家のみ。
しかし江戸後期の当主山川重英は、
勘定方から若年寄を経て家老に昇進し、
約20年も藩政に関わりました。
後に次男山川重固が家督を継ぎ、
家老職も引き継いでいますが、
就任の翌年に病死しています。


男爵山川浩墓」。
元会津藩家老山川浩の墓。
重固の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い16歳で家督を相続。
会津藩時代は山川大蔵と称しています。
京都守護職を拝命した藩主松平容保に伴い、
上洛して任務を務めていましたが、
慶応2年に幕府遣露使節団の一員となり、
ヨーロッパを経由してロシアを訪問。
帰国後に復命していますが、
幕府が崩壊して鳥羽伏見の戦いが発生し、
会津藩の敗北をみて軍制の西洋化を急ぎ、
日光口の戦い等に参戦しました。
その後の会津城下の戦いでは、
既に会津若松城が包囲されており、
入城が出来なかった為に一計を案じ、
会津の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせ、
これに唖然とする新政府軍を横目に、
勢いに紛れて入城しました。
入場後は家老となって籠城の総指揮を執り、
約1ヶ月の籠城戦を戦っています。
降伏後は禁固処分となりますが、
後に許されて斗南藩権大参事に就任。
しかし斗南藩の経営は困難で、
藩士やそ家族の生活は困窮を極めたとされ、
後の廃藩置県で廃藩となりました。
その後は青森県に出仕していますが、
谷干城の推薦で陸軍に出仕。
陸軍歩兵少佐として熊本鎮台に配属され、
佐賀の乱の戦功で中佐に昇進しています。
西南戦争では選抜隊を率いて戦い、
包囲された熊本城に入城。
賊軍であった会津藩の名誉回復の為にと、
鬼神のような戦いぶりだったという。
戦後の明治13年には歩兵大佐に昇進。
陸軍省人員局長兼輜重局長
陸軍省総務局制規課長等を歴任し、
現役のまま高等師範学校校長を務め、
校長在任中に陸軍少将に進級し、
明治21年に予備役に編入しました。
明治23年に貴族院議員に勅選。
明治31年に男爵叙せられますが、
同年に死去しています。


山川唐衣之墓」。
これは重固の妻で浩らの母の墓。
浩の墓と向かい合っており、
墓碑銘は歌号「唐衣」が刻まれています。
重固との間に早逝含め12人の子を儲け、
女手で子供らを育てました。
子供らは浩の他に梶原平馬の室二葉
後の東京帝国大学総長山川健次郎
浩の跡を継いだ山川常盤
大山巌の妻大山捨松など。
山川家之墓には健次郎や常盤も埋葬され、
現在も使用されている模様です。
墓は青山霊園1種ロ18号5側

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