飯盛山で自刃した白虎隊の生き残り飯沼貞吉。
燃える城下を落城と勘違いして、
少年達は次々と自刃し、
貞吉も咽喉に脇差を突き立てたが死ねず、
それを会津藩士の妻が見つけて介抱し、
貞吉は一命を取り留めます。
後に貞吉は電信技士となって各地に赴任し、
電信電話の発展に貢献しました。
この飯沼貞吉が会津戦争終結後、
敵であった長州藩士に引き取られ、
憎き敵地で養われていたというのです。
貞吉を引き取ったのは長州藩士楢崎頼三。
長州藩大組士林源八の二男として生まれ、
同じく大組士楢崎殿衛の養子となりました。
幕長戦争では芸州戦争に従軍し、
戊辰でも勝沼、宇都宮、白河、会津と転戦。
維新後にフランスへ留学しますが、
結核に罹って明治8年に客死しています。
墓はモンパルナスにあるとのこと。
この楢崎頼三が会津戦争終結後に、
猪苗代で謹慎していた捕虜460余名を、
東京へ護送する役目を負ったのですが、
そこで貞吉を見いだしたようです。
一般的に会津藩側が思っているほど長州藩は、
会津藩に恨みを持っていなかったようで、
そういう事があっても不思議はないでしょう。
会津藩家老山川大蔵の弟山川健次郎も、
長州藩士奥平謙輔の書生となっていますしね。
楢崎は貞吉を書生として養おうと、
長州の自領に連れ帰ります。
貞吉は「貞さぁ」と呼ばれていたそうですが、
仲間と共に死ねなかった事などで、
何度も死のうとしていたらしい。
これを聞いた頼三は定吉を説得し、
思いとどまらせたようです。
東厚保町川東小杉周辺(楢崎頼三屋敷跡の場所)
「小杉集会所」の向かいに看板があります。
小杉周辺が楢崎家の領地だったようですが、
93石がどの程度なのかよくわかりません。
今も田園風景が広がるのどかなところです。
訪問時は残念ながら雨でした。
「楢崎頼三屋敷跡」。
少し登ると見えてきます。
もともと庄屋高見家の屋敷だった場所で、
幕末の一時期に楢崎家の仮屋敷となります。
領主の頼三から託された貞吉は、
悪い待遇ではなかったと思いますが、
周りは農家ばかりで武士ではないので、
武士にとって屈辱的な言葉を何気なく発し、
それが貞吉を傷つけることもあったという。
「恩愛の碑」。
去年建てられた石碑。
恩讐を越えた人間愛を、
後世に伝えるために建立されました。
貞吉は生前ここで養われていたことを語らず、
頼三もそれに関する事を書き残していません。
唯一高見家口伝で伝えられていたことですが、
状況から信憑性が高く定説となっています。
「正三位勲一等高見三郎之墓」。
第3次佐藤改造内閣の文部大臣高見三郎は、
庄屋であったこの高見家の出身。
屋敷跡は高見家の墓所となっています。
彼はここにあった屋敷で生まれ、
貞吉が滞在した部屋で勉強していたらしい。
屋敷跡を思わせる庭池の跡もありました。
貞吉の滞在期間ははっきりしていませんが、
明治3年には静岡に行っているので、
たぶん一年未満だったと思われます。
貞吉はここでの事を一生口外していません。
山川健次郎は部屋に奥平の書を掲げ、
終生感謝しつづけたらしいのですが、
貞吉はなんだか恩知らずのようにも見えます。
ですが仲間が全員自刃してたりと立場が違い、
その恩も公にできなかったのかもしれません。
※上記の全員自刃は間違い。
下記コメントでご指摘を受けました。
ご指摘ありがとうございます。
■関連記事■
・山口県萩市 亨徳寺/楢崎頼三墓所
萩にある楢崎頼三の墓。
・山口県美祢市 八幡磨能峰宮
池田屋事件で闘死した広岡波秀の碑。
・山口県美祢市 四郎ヶ原宿
松陰が宿泊した宿場町。
・山口県美祢市 来嶋又兵衛関連史跡
遊撃軍総督来島又兵衛の墓所など。
白虎隊士中二番隊の勘違い切腹話は嘘ですよ。
切腹した人数は6人です。
飯沼貞吉が残した回顧録には勘違い切腹で
20人が切腹したとは記されてません。
飯沼達は隊長達17名とはぐれてしまい
飯盛山まで逃げてこれからどうするか話し合い
飯沼を含む6名が山中で切腹し5名死亡。
残りの隊士は下山してます。
城に戻る途中で戦死したり自害してますが
6名は生きて城に辿り着いてます。
>岩代さん
コメントありがとうございます。
会津史については色々と間違いも多く、
かなり盛られてて??と思う事が多くありますし、
郷土史家や作家も偏見が強い方が多いようです。
市中二番隊は戦死13名+切腹6名で19名死亡が、
いつのまにか19名切腹となったんですね。
その方が絵になりますし悲壮感もあります。
会津史についてはまだまだ未熟。
今後も宜しくご教授下さいませ。