山口県萩市 亨徳寺/楢崎頼三墓所

亨徳寺には楢崎頼三の墓もあります。
彼の墓はパリにしか無いと思ってましたが、
意外にもに建てられていました。


贈従四位楢崎賴三墓(右)」、
楢崎家歴代祖先墓(左)」。
長州藩士楢崎頼三の墓と、
楢崎家の累代墓。
大組士林源八の二男に生まれ、
藩校明倫館に学びました。
嗣子ない楢崎豊資の養子となり、
元治元年に家督を相続。
世子毛利定広近侍として仕えており、
下関攘夷戦に参加しています。
慶応元年より干城隊に入隊しており、
芸州戦争で小隊長として活躍。
戦後は第一大隊二番中隊に所属し、
二番二隊司令を命じられました。
戊辰戦争では第一大隊二番中隊司令となり、
東山道先鋒鎮撫使に随行して転戦し、
甲州勝沼戦争宇都宮戦争白河戦争
会津戦争等で戦っています。
凱旋時に白虎隊士飯沼定吉を連れ帰り、
美祢郡厚保の屋敷で養育。
明治3年には兵学修業の為に渡仏し、
明治6年に留学生取締となっていますが、
明治8年に肺病を患って客死しました。
本墓はモンパルナス墓地にあります。

楢崎の屋敷で養育された定吉は、
そこで傷の再治療をしたり、
学問修行をして過ごしたようで、
後に電信技士として出世しており、
79歳でその生涯を終えています。

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山口県美祢市 楢崎頼三屋敷跡(再訪)
 美祢にある楢崎家の屋敷跡。
下関市南部町 下関電信局(電報)発祥の地
 飯沼定吉は下関電信局に勤務していました。
「あずさ弓の如く」苑場凌
 飯沼貞吉を描いた漫画で楢崎頼三も登場。