清岩寺は三奈木にある曹洞宗の寺院。
中世山城のあった茶臼山の山麓にあり、
元和年間(1615-1624)に黒田一成が建立し、
三奈木黒田家の菩提寺となりました。
檀家は家臣の子孫が多いという。
「本堂」。
始め下座郡屋形原村に建立され、
後に現在地に移転したようですが、
その際に山号を茶臼山に改めたようです。
本堂は創建時期不明ながら古いもの。
三奈木黒田家の墓所は、
庫裏横の石段を登った場所。
「三奈木黒田家墓所」。
三奈木黒田家は代々大老職を務めていた為、
基本的には福岡城に詰めており、
歴代当主は城下に葬られていました。
清岩寺にある墓所には初代一成の他、
明治維新後に死去した当主の墓があります。
「睡鷗齋休江宗印居士」。
初代当主黒田一成の墓。
荒木村重の家臣加藤重徳の次男で、
福岡藩祖黒田如水が村重に捕らえられた際、
重徳が何かと世話を焼いてくれたようで、
如水は後にこの恩に報いる為に、
一成を自分の養子として迎えました。
雑賀一揆で初陣を迎えた後は、
四国征伐や九州征伐に出陣しており、
朝鮮出兵では黒田長政の先鋒隊を努め、
金海城一番乗りを果たしています。
関ヶ原の戦いで安藤直重を討ち取っており、
下座郡1万2000石を与えられました。
その所領三奈木村に居館を構え、
以降は三奈木黒田家と称されようになり、
代々大老職を務める事となります。
2代当主黒田一任以降の墓は崇福寺にあり、
ここには10代以降の当主の墓があります。
※11代は除く。
「前筑前國大老黒田朝臣溥整大人墓」。
10代当主黒田播磨溥整の墓。
9代当主黒田清定の長男に生まれますが、
既に嫡子は義兄黒田一修が内定していた為、
中老加藤家の養子となり家督を相続。
しかし義兄一修が廃嫡となった為、
※廃嫡理由は不明。
※※加藤家の家督は加藤司書が相続。
復籍して三奈木黒田家を相続しました。
家中では尊攘派に理解ある立場で、
門閥の佐幕派家臣らと対立。
独断で加藤司書を家老に昇進させますが、
長州再征や犬鳴御別館事件が発生し、
佐幕派が勢力を盛り返します。
そして乙丑の獄が発生して弾圧が始まり、
尊攘派は徹底的に弾圧され溥整も蟄居。
その後の慶応4年2月に許され、
藩政に復帰していますが明治2年に隠居し、
明治18年に死去しました。
11代黒田一美の墓は無し。
情報も乏しくどこに墓があるのか不明。
明治8年に黒田家顧問として上京したので、
東京に墓があるのかもしれません。
※追記:崇福寺にある事を確認。
「従五位黒田一雄大人墓」。
12代当主黒田一雄の墓。
10代溥整の次男で12代当主を相続し、
明治12年に隠居したようです。
「正四位男爵黒田一義之墓(左)」、
「黒田瀧子之墓(右)」。
13代当主黒田一義の墓と妻瀧子の墓。
11代一美の長男で、
12代一雄の養子となり、
三奈木黒田家の家督を継ぎました。
10代溥整の維新の功績により、
明治33年に男爵を叙爵されています。
「正五位男爵黒田一弘之墓(左)」、
「従四位男爵黒田稔之墓(右)」。
14代当主黒田一弘の墓と、
15代当主黒田稔の墓。
一弘は13代一義の長男で14代を相続。
稔は一義の次男で子の無い兄の養子となり、
15代当主となりました。
江戸期の当主は初代と10代だけで、
他は維新以降ですのでさらっと紹介程度で。
崇福寺の墓所は玄洋社墓所の隣。
別の機会に訪問しようと思います。
■関連記事■
・福岡県福岡市 崇福寺/三奈木黒田家墓所
三奈木黒田家の歴代墓所。
・福岡県福岡市 福岡城跡
福岡藩黒田家の居城跡。
・福岡県福岡市 節信寺/加藤司書墓所
尊攘派家老加藤司書の墓。
・福岡県宮若市 犬鳴御別館跡
藩主の避難施設として建設された別館跡。