福岡藩の尊攘派家老加藤司書は、
有事の際の藩主避難所の建設を提案。
福岡藩主黒田長溥もこれを承諾して、
犬鳴御別館の建設が開始されます。
しかしこれは尊攘派が実権を握る為、
長溥を幽閉する施設であるとして、
藩内佐幕派が注進した為に長溥は激怒。
乙丑の獄が発生して尊攘派は捕縛され、
首領格の司書や月形洗蔵を始め、
関係者140名以上が捕縛された末、
司書は建部武彦、斉藤五六郎らと共に、
天福寺で切腹しています。
この加藤司書の墓が節信院にあります。
「節信院」。
節信院は聖福寺塔頭の臨済宗の寺院。
黒田家の家臣加藤重徳により開基され、
加藤家の菩提寺となっています。
重徳は黒田如水が荒木村重により、
有岡城の土牢に監禁された際、
親身になってその世話をしており、
栗山利安に協力してこれを救出。
本人は討死を覚悟していた為、
次男の玉松や家族を如水に託しました。
しかし重徳は生き永らえて、
後に宇喜多家や小西家に仕官しており、
関ケ原の戦いの後に黒田家に招かれ、
如水を救った功によって重臣となって、
子孫は代々中老職を務めました。
預けられていた玉松も黒田一成を名乗り、
黒田二十四騎の一人として活躍。
子孫は三奈木黒田家となっています。
「加藤家墓所」。
加藤家の墓所は本堂裏手。
かつては代々の墓もあったのでしょうが、
現在は整理されているようです。
「見性院殿可悟道宗心居士(中央)」。
加藤家11代当主加藤司書徳成の墓。
9代加藤徳裕の長男として生まれますが、
家督は既に養子加藤徳蔵が継いでいました。
しかし徳蔵は実家の三奈木黒田家に復籍。
これによって家督を相続しています。
露国のプチャーチンが長崎に来航した際は、
藩士約5百名を率いて長崎警護を担当。
外国奉行川路聖謨と共に交渉し、
これを退去をさせる事に成功しました。
安政期には藩執政となっており、
藩内の尊皇攘夷派に理解を示し、
首領的な立場となってます。
第一次長州征伐では周旋に奔走し、
長州藩の恭順と征長軍解散を導き、
五卿の大宰府移転にも貢献。
藩内も勤皇派が主流となっていますが、
長州再征でその面目が潰されてしまい、
立場が怪しくなっていたところを、
上記した犬鳴御別館の件で長溥が激怒し、
乙丑の変で切腹を言い渡されました。
「加藤堅武之墓(左)」、
「加藤大三郎家累世墓(中央)」、
「加藤大四郎墓(右)」。
司書の息子らで左から加藤堅武の墓、
加藤大三郎家の累代家、加藤大四郎の墓。
堅武は長男で間違いないようですが、
大三郎、大四郎は資料がまちまちで、
次男か三男かよくわかりません。
堅武と共に福岡の変に参加したようで、
大三郎は大坂府での在役中に病没。
※平尾霊園の殉教諸士之墓碍より。
墓は累世となっていますので、
子供がいたのでしょう。
大四郎は釈放されますが早死しており、
子の輔道は後に節信院の住職となります。
ですが大四郎の子孫の話によると、
司書の子は長女まき、長男堅武、
次男大四郎、末娘ちかとなっており、
何が正しいのかよくわかりません。
司書の息子らは家督を継ぐ事を許されず、
末娘ちかが中老家の野村家から婿を迎え、
12代当主加藤徳行となったという。
この徳行も福岡の変に参加しており、
獄中で死亡したようですので、
大三郎と徳行は同一人物かもしれません。
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