崇福寺墓地にある三奈木黒田家の墓所。
玄洋社墓地に隣接しています。
「三奈木黒田家墓所」。
三奈木黒田家は黒田一成を祖とする家。
一成は黒田官兵衛孝高の養子となり、
黒田長政の弟のようにして育てられ、
子孫は福岡藩の大老職を世襲し、
その藩政に大きく関わりました。
「睡鷗齋休江宗印居士」。
初代当主黒田一成の墓。
一成は荒木村重の家臣加藤重徳の次男。
官兵衛は謀反した村重の説得に失敗し、
有岡城で捕らえられた際、
重徳が色々と世話を焼いてくれた為、
その恩に報いる為に一成を養子に迎え、
実の子同然に育てたとされます。
成長すると長政に尽くして戦功を挙げ、
朝鮮出兵では金海城一番乗りの武功、
関ヶ原では蒲生将監の首を挙げる等、
多くの戦いに貢献しました。
筑前入国後は1万2000石を与えられ、
三奈木に居館を建てた為に、
以後は三奈木黒田家と呼ばれ、
大坂の陣、天草の乱にも出陣。
藩内で特別な存在となっています。
明暦2年(1656)に86歳で死去。
「忠〇宗節禪定門(右)」、
「刀山宗釼禪定門(左)」。
萩本忠兵衛正興と岡五郎衛門正貞の墓。
定かではありませんが、
一成に殉死した家臣と思われます。
「黒田家」。
墓石は2代当主黒田一任もののようですが、
上書きされて合葬墓となっている模様。
一任は重臣久野重時の長男として生まれ、
外祖父の黒田一成の養嫡子となります。
島原の乱では養父と共に出陣し、
天草丸一番乗りの功名を挙げました。
父一成の隠居に伴い家督を相続。
長崎の警護等も担当しています。
「高松院殿妙道ム法居士
恵照院天英妙高大姉」。
3代当主黒田一貫とその正室勝姫の墓。
2代一任の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
2代藩主黒田忠之、3代黒田光之、
4代黒田綱政の3代に仕え、
絶大な信頼を得ていたようです。
正室の勝姫は秋月藩初代黒田長興の娘。
以降の当主の墓は特定出来ず、
9代、11代のみ判別出来ました。
4~8代当主の墓があるはずですが、
当主っぽい墓は2つのみで、
他は奥方や親族のもののようです。
それ以外は空襲で破壊されたのかな?
「雲〇院殿絶巌宗倫居士
光室院殿海妙照大姉」。
当主と奥方の墓のようですが、
戒名からは判断出来ませんでした。
「黒田家墓」。
こちらも上書きされていますが、
側面に慶応元年閏5月25日の文字。
この没年の当主はいませんので、
当主以外の人物の墓だったのでしょう。
「妙巌院法雲圓智大姉」。
当主の前に死去した奥方の墓のようですが、
当主が刻まれるべき右側が開いており、
合葬はされていない模様。
「全昌院殿(以下風化により読めず)」。
これも当主夫妻の墓と思われますが、
誰のものか特定出来ません。
「養太院心譽幸安大姉
華静院殿實相貞眞大姉
清林報譽受慶大姉」。
奥方か姫君の合葬墓。
後期の当主は特定出来ました。
「淨觀院恭翁紹篤居士」。
9代当主黒田清定の墓。
福岡藩士四宮義和の子として生まれ、
同藩士伊丹景弘の養嫡子となりますが、
後に8代黒田隆庸の婿養子になります。
養父の死去に伴い家督を相続し、
世襲の大老職に就任。
文化元年のロシア船長崎来航では、
藩兵を率いて警護に当たりました。
在任中に中老久野外記の独断により、
御救仕組による藩政改革が行われますが、
これが失敗して藩内は乱れ、
その混乱の収拾に当たっています。
天保11年、死去。
10代黒田溥整の墓は朝倉市の清岩寺。
「前筑前國太守黒田朝臣一美大人墓」。
11代当主黒田一美の墓。
一族の黒田曙園の長男に生まれ、
乙丑の獄で蟄居となった溥整に代わり、
11代当主となっていますが、
政情が変わり養父溥整が復帰した為、
溥整の次男黒田一雄に家督を譲りました。
明治30年、死去。
以降の当主の墓は朝倉市の清岩寺。
今回不明だった当主の墓の特定は、
引き続き調べてみるつもりです。
■関連記事■
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