福岡県福岡市 妙楽寺/福岡藩重臣墓所

妙楽寺は博多区御供所町にある臨済宗寺院。
正和5年(1316)に月堂宗規により開山し、
当時は北浜にあったようですが、
天正14年(1586)に戦火で焼失して、
現在地に再建されています。


本堂」。
境内にはういろう伝来之地碑があり、
元の礼部員外郎陳延祐が日本に亡命し、
妙楽寺に住んで陳外郎を姓としたようで、
その息子陳外郎宗奇に留学して、
帰国後に胃腸薬外郎薬として販売。
これが大変苦い薬であった為、
米粉の菓子が添えられて、
現在のういろうの元となったという。


妙楽寺墓地」。
本堂裏手にある妙楽寺の墓地。
市街地ながら広々とした敷地を有し、
巨大な墓石が乱立しています。

この墓地には末次久四郎考善
神屋善四郎宗湛博多商人の墓があり、
巨大な墓碑から財力が伺えますが、
福岡藩重臣の墓も同様に建っています。

竹森巌美次貞之墓」。
黒田二十四騎のひとり竹森次貞の墓。
日岡神社の宮司の三男でしたが、
黒田孝高に小姓として仕え、
高倉山城の戦いでは伊王野土佐守
祖父江左衛門を討ち取る戦功を挙げ、
竹森新右衛門の名を与えられます。
別府城の戦いでは一番首を挙げますが、
左手に大怪我を負った為、
以後は旗奉行となっており、
鳥取城の戦い高松城の戦い
山崎の戦い賤ヶ岳の戦い
城井谷の戦い朝鮮出兵等に参加しました。


吉田壱岐重成之墓」。
黒田二十四騎ひとりの吉田長利の嫡男で、
城井鎮房の謀殺に関与した吉田重成の墓。
朝鮮出兵でも活躍しており、
島原の乱にも出陣していますが、
敵の銃撃で負傷してしまいその傷が悪化し、
乱後に死去しています。


瑞峰宗〇〇普〇〇」。
黒田左兵衛の墓。
3代藩主黒田光之の三男で僅か6歳で夭逝。


法徳院殿栢丹羽紹高居士(右)」、
露岳宗白居士(中)」
鎌田家祖先累代墓(左)」。
福岡藩大組鎌田家の墓所。
家老を務めた鎌田九郎兵衛昌信の墓、
同じく鎌田八左衛門昌勝の墓、
及び鎌田家の累代墓。
個人墓の2人は江戸初期の当主で、
幕末の当主は鎌田八郎兵衞という。

他にも巨大な墓石の墓があるのですが、
標柱がないので誰の墓かわかりません。
とりあえず墓地を出て開山堂へ。

開山堂」。
開山の月堂宗規並びに歴代住職を祀る御堂。
現在のものは元禄11年(1698)の再建で、
大正年間に真向かいから移築されました。
先程の妙楽寺墓地とは別に、
この開山堂の周りも墓地となっています。


休叟道(以下破損)」。
家老黒田監物利良の墓。
豊臣秀吉の家臣の子とされており、
※誰かはわかりません。
黒田孝高に預けられて育ったとされ、
孝高、黒田長政、黒田忠之と、
三代に渡って仕えました。
石垣原の戦いで戦功を挙げた他、
福岡城普請奉行も務めていますが、
島原の乱に参戦して討死しています。


贈従四位鷹取養巴之墓(左2)」、
鷹取家累世之墓(右)」。
鷹取家は代々福岡藩医を務めており、
その医術の秘法は河童の直伝とされます。
※悪戯をした河童の手を斬って、
 返す代わりに秘伝を授かったという。

幕末の当主鷹取養巴は尊攘運動に参加し、
勤王僧月照が福岡に逃れてくると、
平野国臣ら同志と薩摩に逃がしました。
後に周旋方に任じられて各地を歴訪。
第一次長州征伐で両陣営の周旋を行い、
五卿大宰府移転も成功させていますが、
乙丑の獄に連座する事となり、
月形洗蔵ら同志と共に斬首されています。


本性紹清居士」。
佐幕派の家老久野将監(一角)の墓。
尊攘派の加藤司書らと対立しており、
浦上信儂野村東馬らと乙丑の獄で、
福岡藩の尊攘派を壊滅させています。
慶応4年正月に大坂に向かいますが、
既に鳥羽伏見の戦い新政府軍が勝利し、
大坂は薩長の兵が溢れかえっており、
船も下りずに引き返して藩兵を編成。
3500名を京都に送り込みました。
しかし新政府は福岡藩に対し、
乙丑の獄の責任者の処罰を求めた為、
浦上、野村らと共に切腹しています。
これによって藩は左右共に人材を失い、
戊辰戦争では新政府軍の足手まといとなり、
敵の同盟軍からも呆れられたという。

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