栃木県大田原市 光真寺/大田原家墓所①

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光真寺は大田原市にある曹洞宗寺院で、
大田原城を築城した大田原資清が建立。
資清の実兄體翁麟道を開山に迎え、
大田原家の菩提寺としました。


大門(山門)」。
江戸中期に大田原城の門が移設されますが、
その時の門は焼失してしまったようで、
この門は文政8年(1825)の再建とのこと。


本堂」。
現在の本堂の建築時期は記されませんが、
文政8年(1825)に焼失していますので、
それ以降再建でしょう。

本堂裏手の龍体山(光龍台)には、
かつて大田原家の墓所がありましたが、
風化や損壊を防ぐ為に、
昭和15年に本堂隣に移設されています。


爲大田原家先祖代々各霊菩提」。
歴代の供養塔。
開基の13代大田原資清や、
14代大田原綱清が合祀されています。
13代資清は知勇に優れた武将で、
主家である那須家の家督争いで活躍。
後に讒言を受けて失脚していますが、
返り咲いて家中で最大勢力となり、
主家との関係も深めました。
居城も水口城から大田原城へ移し、
それまでの大俵姓から大田原姓へ改姓。
光真寺も創建しています。
14代綱清は資清の三男で、
長兄の大関高増大関家を継いだ為、
継嗣となって家督を相続。
武勇に優れた人物だったようです。


奪勝院殿院国榮全大居士(左)」、
智覺院殿齢保堅長大居士(右)」。
15代(初代藩主)大田原晴清の墓と、
16代(2代藩主)大田原政清の墓。
15代晴清は綱清の嫡男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続します。
小田原征伐那須資晴が参陣しなかった為、
那須家は所領の没収されますが、
晴清は弟大田原増清を派遣しており、
大関家と共に所領を安堵。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、
後に加増されて大田原藩を立藩しました。
16代政清は晴清の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
駿府加番大坂城番を務めています。


右手前から、
月鏡院殿直光不昧大居士」、
純清院殿絶點涼白大居士」、
千秋院殿久昌長栄大居士」。
18代(4代藩主)大田原典清の墓、
19代(5代藩主)大田原純清の墓、
17代(3代藩主)大田原高清の墓。
17代高清は16代政清の長男で、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
将軍徳川家綱の命で強制隠居しています。
18代典清は旗本織田家からの婿養子で、
養父の隠居に伴い家督を相続。
13年の治世の後に38歳で死去しました。
19代純清は典清の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
僅か5年で病死しています。


乾徳院殿撫山清育大居士」。
20代(6代藩主)大田原清信の墓。
16代政清の三男織田吉清の長男でしたが、
19代純清の早逝により急遽家督を相続。
彼も僅か3年足らずで病死しました。


泰獄院殿潔心良白大居士(左)」、
見性院殿廓道本然大居士(右)」。
21代(7代藩主)大田原扶清の墓、
22代(8代藩主)大田原友清の墓。
21代扶清は一族大田原晴川の長男で、
相次ぐ藩主の早世に伴い家督を相続。
32年の治世の後に死去しました。
22代友清は扶清の六男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
30年の治世の後に隠居しています。

つづく。
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