①/②
つづき。
「振宏院殿仙桟賢道大居士」。
23代(9代藩主)大田原庸清の墓。
22代(8代藩主)大田原友清の次男で、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
26年の治世の後に死去。
「圓徳院殿大光清鑑大居士」。
24代(10代当主)大田原光清の墓。
23代庸清の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
10年の治世の後に隠居しており、
和歌を詠みながら余生を過ごしたという。
「俊徳院殿文山清韻大居士」。
25代(11代藩主)大田原愛清の墓。
24代庸清の三男として生まれ、
仏門に入って光真寺で修行しましたが、
継嗣のいない兄光清の養子として還俗。
後に光清の隠居で家督を相続しました。
35年の治世では仁政に尽くし、
文武に優れた名君であったようです。
「廣源院殿清雄良湛大居士」。
26代(12代藩主)大田原廣清の墓。
25代愛清の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
僅か4年で病死しています。
「護邦院殿徳雲清潤大居士」。
27代(13代藩主)大田冨清の墓。
綾部藩9代九鬼隆都の次男に生まれ、
26代廣清の早逝により家督を相続。
駿府加番や大坂加番を務めていますが、
文久2年の大坂加番再任の際に、
任地の大坂で病死しています。
「秋天院殿美山一清大居士
慧鏡院殿元心貞光大姉」。
28代(14代藩主)大田原勝清(一清)と、
継妻茂登子の墓。
27代冨清の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
戊辰戦争では新政府に恭順した為、
旧幕府軍の攻撃を受けており、
大田原城下が戦火に焼かれました。
廃藩置県後は慶應義塾で学び、
後に貴族院議員を務めています。
昭和5年に70歳で死去。
写真右側の玉垣は勝清のものですが、
墓石はその正面にあります(写真左側)。
理由はわかりませんが、
歴代と並ぶのは恐れ多いとか、
そういった意味でしょうか?
①/②
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