大田原城は大田原藩の藩庁。
文明18年(1486)に大田原資清が築城し、
大田原家の居城として続きました。
現在は龍城公園として整備されています。
「龍城公園駐車場(西曲輪跡)」。
駐車場となっている場所が西曲輪跡。
馬場や長屋があったとのこと。
「三日月堀」。
駐車場脇にある堀跡。
名のとおり三日月型であったようですが、
現在は縮小して半月型(?)になっています。
「坂下門跡」。
龍城公園の入口は枡形となっており、
坂下門と呼ばれた門がありました。
周辺には土塁も残っています。
「裏門口跡」。
本丸への裏口ですが、
大手口である二ノ丸跡は、
訪問時は工事中で立入禁止。
仕方なく裏口から登城しました。
「本丸跡」。
本丸には天守や櫓はなかったようで、
四方は土塁に囲まれていました。
ここに藩主御殿と政庁が置かれましたが、
麓の三ノ丸にも御殿があったようで、
この辺の使い分けが不明。
隠居屋敷だったのかもしれません。
「二之丸跡」。
工事中で立入禁止。
こちらが本丸の大手口で、
本丸側に台門、二ノ丸側に冠水門と、
二重の門があったようです。
大田原藩は1万1000石の小藩ながら、
城を持つ事が許されていました。
徳川家康はこの地を重視したようで、
会津の上杉景勝に対する備えとして、
城の修理を命じたとされ、
3代将軍徳川家光も玄米千石貯蔵を命じ、
奥州諸藩への備えをさせたようです。
大田原藩は次席家老大田原一学、
藩士権田峰蔵、神主岩瀬響を京に遣わし、
鳥羽伏見の戦い後の状況を視察させます。
彼らは帰藩後に朝廷方に付くべきと報告。
大田原藩はいち早く恭順に至りました。
これに旧幕府軍は約1000人の軍勢を差し向け、
慶応4年5月2日に大田原に侵攻。
藩は配備していた権現筒で応戦しますが、
城下は焼かれ坂下門付近まで陥落します。
その際に作事場の火薬庫が爆発し、
これを地雷火と見た旧幕府軍は退却。
塩原方面に逃走しました。
城内には殆ど兵はいなかったという。
その後、大田原藩は会津戦争に参加。
論功行賞で一時金五千両を下賜されました。
【大田原藩】
藩庁:大田原城
藩主家:大田原家
分類:1万1000石、外様大名
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大田原藩大田原家の歴代墓所。
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近隣にあった黒羽藩の藩庁。