法華寺は長府金屋町にある法華宗寺院。
その起源は国分尼寺であるとされ、
元和元年(1615)に現在地に移転しています。
初代藩主毛利秀元の側室正福院の両親が、
この寺に篤く帰依していた事から、
毛利家より寺田を賜り諦玄寺と称しました。
※明治3年に法華寺と改称。
「本堂」。
訪問時は丁度逆行で斜めから撮影。
本堂は昭和31年に火災で焼失しており、
現在のものは後に再建されたもの。
法華寺の墓地には大庭伝七の墓があります。
「大庭家累代之墓」。
閼伽井屋兼観音堂の裏手にある伝七の墓。
伝七は小倉屋白石正一郎の末弟で、
長府の大年寄大庭家の養子となりました。
家督相続後も尊攘運動に邁進しており、
兄と同じく高杉晋作を支援。
元治元年に晋作が筑前に亡命した際は、
中村円太と共に同行しています。
功山寺挙兵で晋作は伝七に宛てて、
遺書のようなものを送付。
これに書かれた晋作の墓誌は、
表が故奇兵隊開闢総督高杉晋作則
西海一狂生東行墓
遊撃将軍谷梅之助也
裏が毛利家恩古臣高杉某嫡子也
と要望されていましたが、
実際に実兄の正一郎が建てた墓には、
東行墓とのみ刻まれました。
※後の高杉東行先生150回忌記念事業で、
上記の墓誌碑が建立されています。
維新後は東京に移住し太政官に出仕。
明治18年に死去しました。
この墓は明治40年に長男大庭景一、
次男は大庭景陽、三男大庭景秋により、
法華寺改葬の際に建てられたもの。
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