東京都台東区 谷中霊園/相馬大作之碑

写真を整理していましたら、
[相馬大作之碑]の写真が見つかりました。
前回(だいぶ前ですが)谷中霊園を訪問した際、
記事とするのを忘れていたようなので、
遅ればせながら記事にします。


相馬大作之碑」。
谷中霊園の桜通り沿いにある碑。
この通りは元々は天王寺の参道で、
多くの招魂碑慰霊碑が建てられています。
この慰霊碑もその一つのようで、
歌舞伎役者初代市川右團次が、
相馬大作を演じて好評であった事から、
彼によって明治15年に建立されたもの。

相馬大作の本名は下斗米秀之進と云い、
剣術に優れた盛岡藩士でした。
当時の藩主11代南部利用は、
若年であった為に無位無官であり、
それに比べて弘前藩9代津軽寧親は、
従四位下に叙任されており、
石高も高直しされて10万石となり、
8万石の盛岡藩を超えました。
元々津軽家は南部家の臣下であった為、
盛岡藩からは格下の存在であったのですが、
官位及び石高共に負けてしまいます。

この状況に下斗米は寧親に果たし状を送り、
その中で辞官隠居を勧めていますが、
聞き入れられぬ場合は、
悔辱の怨を報ると脅しています。
勿論そんなものを送っても無視されるだけ。
下斗米は門下らと共に暗殺計画を練りますが、
雇っていた刀鍛冶の密告により露見。
寧親の大名行列は別ルートを通り、
下斗米の襲撃計画は失敗に終わります。
その後に江戸に潜伏して相馬大作を名乗り、
江戸で剣術道場を開いていましたが、
幕吏に捕まって打首獄門となりました。

忠義が美徳とされた時代に、
大名の暗殺まで企てた相馬大作は、
その忠義心から赤穂浪士の再来と称され、
吉田松陰藤田東湖も彼を追慕し、
多くの人々に影響を与えています。
慰霊碑は谷中霊園甲2号5側

■関連記事■
秋田県大館市 相馬大作事件之地
 相馬大作が津軽公を待ち伏せした場所。
秋田県鹿角市 相馬大作壮図史蹟
 相馬大作が潜伏したとされる温泉地。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です