①/②/③/④/⑤/⑥
つづく。
その事の敗れの本を尋ぬれば、
櫓ぐひなき計りにてかくなりゆけり。
因って思ふ。左傳某の役の敗を記して、
鯵絓りて止まるとやらあり。
大軍の敗もかかる小事に因ることなり。
左氏兵を知る。
※失敗の原因を探ってゆけば、
櫓杭が無かった辺りからとなる。
よって思う。[左傳]の某の役の敗戦には、
[鯵絓りて止まる]とある。
小さなミスも大軍の敗北の要因となる。
左氏は兵略を知っている。
※※左傳は[春秋左氏伝]の通称。
左氏はその著者左丘明のこと。
故に其の叙事甚だ妙なり。叉思ふ。
漢の李廣衛青に従ひて匈奴を撃ち、
惑ひて道を失ふ。
青上書して天子に軍を失へる曲折を
報ぜんと欲すと。
※故にその事柄は非常に妙である。
また思う。漢の李廣が衛青に従い、
匈奴の討伐で道に迷ってしまう。
これに衛青が報告書を書き、
武帝にその曲折を伝えようとすると。
この曲折と云ふこと甚だ味があり、
敗軍すれば一概に下手の様に云へとも、
其の曲折を聞けば必ず據なきおとあるべし。
※この曲折というのは非常に意味があり、
負ければ一概に下手の様になるが、
その曲折を聞けば理由があるだろう。
後人紙上に英雄を論ず、悲しいかな。
吾れ等の事、後世の史氏必ず書して云はん。
[長門の浪人吉田寅二郎-澁木松太郎、
夷舶に乗りて海外に出でんことを謀り、
事覺れて捕はる。寅等奇を好み術なし、
故にここに至る]と。
※後の世の人は紙上の英雄を論ずる。
悲しい事だが我らの事は、
後世の史家が必ず書して言うだろう。
[長門の浪人吉田寅二郎と渋木松太郎、
夷船に乗って海外への密航を謀り、
失敗して捕縛される。彼らは奇を好むが、
術は知らない。だからこうなる]と。
澁木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。
然れども敗軍の時は、
何も進呈に任せぬものなり。
洞春公・東照公の名将にてさえ、
大敗軍には一騎落とし給うことあり。
※渋木生は刀を舟に置いたのが大恥で、
大変に悔やんでいるが、
負ける時な何事も上手くいかないものだ。
毛利元就公や徳川家康公でさえ、
大敗北の際は落馬する事もあろう。
然れば吾れ等の事も強ち恥とするにに足らず。
但だ天命を得ず、
大事成就せぬは憾みと云ふべし。
亦何ぞ益せんの誹りを免れぬ所以なり。
甲寅十一月十三日、野山獄中に之を禄す。
時に天寒く雪飛び、研池屢々凍る。
二十一回猛士矩方
※それならば我らの事も恥とするに足らず。
ただ天命を得なかっただけで、
計画の失敗は残念だというのみ。
また[何の役に立ったのか?]の誹りを、
免れる所以である。
安政元年11月13日。野山獄でこれを記す。
季節は寒く雪が舞い池は凍る。
二十一回猛士矩方
下田にて讀み侍りし
世の人はよしあしごともいはばいへ
賤が誠は神ぞ知るらん
乙卯五月念四日 藤寅
※下田にて読んでみた
世の人はよしあしごともいはばいへ
(世の人は良い事も悪い事も言う)
賤が誠は神ぞ知るらん
(嘘か誠かは神のみぞ知る)
安政2年5月24日 藤寅
—————————————–
以上が[三月二十七日夜の記]でした。
詳しく密航しようとする様子が記され、
どのような状況だったのか判りますが、
そんな事よりも気になるのが、
[全くめげていない松陰]の様子です。
兄の杉梅太郎も本当に苦労したでしょう。
普通はシュン(泣)となるものですが、
流石のポジティブシンキング。
これぞ吉田松陰といった感じですね。
①/②/③/④/⑤/⑥
■関連記事■
・静岡県下田市 下田湊②/松陰の密航計画
吉田松陰密航関連の史跡。
・吉田松陰の最初の江戸遊学①
松陰最初の江戸遊学の行程。
・吉田松陰2度目の江戸遊学①
嘉永6年の江戸遊学の行程。